日本の韓国併合
1909年、韓国人に伊藤博文暗殺がされると、翌年日本は韓国を併合、朝鮮半島を完全に日本の植民地とした。朝鮮の農民が多く日本に流入、日本資本主義の底辺を支える低賃金労働者となった。
日本の韓国併合
日露戦争中から、日本は韓国に対し3次にわたる日韓協約(1904, 05, 07)を強要し、韓国への干渉を強化していった。とくに日露戦争後に締結された第2次日韓協約(日韓保護条約)では、日本政府の代表機関である統監府をソウルにおき、韓国の外交権を接収して事実上の保護国とした。初代統監に就任した伊藤博文(1841〜1909)は、韓国併合の準備を進め、1907年、高宗皇帝がオランダのハーグで開催中の第2回万国平和会議に密使を派遣して韓国の危急を訴えるハーグ密使事件をおこすと、高宗(朝鮮)に迫って退位させ、第3次日韓協約を結んだ。さらに韓国の内政をも統監府の監督下におき、秘密協定により韓国軍を解散させた。
このような日本の干渉と圧迫に対し、韓国民衆は反日義兵闘争と呼ばれる激しい武装抵抗運動を展開した。日本は列強の黙認のもとに徹底した武力弾圧をもって臨み、武力によりこれを抑圧していった。こうしたなかで1909年、伊藤博文がハルビン(哈爾浜)駅頭で韓国人青年安重根(1879〜1910)に暗殺されると、これを機に日本は翌10年、韓国併合にふみきり、朝鮮半島を完全に日本の植民地とし、朝鮮総督府をおいて統治機関とした。朝鮮総督府は憲兵・警察制度を設置し、過酷な「武断政治」によって韓国民衆の抵抗を抑圧した。また土地調査事業(1910〜18)を実施して所有権の明確でない土地を朝鮮の農民から没収し、日本人土地会社や入植者に安値で払い下げるなどの植民地政策を強行していった。この土地調査事業の結果、土地を追われた多くの朝鮮の農民が日本に流入して、日本資本主義の底辺を支える低賃金労働者となり、劣悪な労働条件と差別に苦しんだ。このことは、いわゆる在日朝鮮・韓国人問題の始まりとして留意されなければならない。