源氏の進出 前九年合戦 前九年合戦・後三年合戦地図
前九年合戦・後三年合戦地図 ©世界の歴史まっぷ

4. 源氏の進出

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源氏の進出

  • 1028年 平忠常の乱 平氏は源頼信の武名に恐れ戦わずして降伏 源氏が東国に進出
  • 1051年 前九年合戦 源氏と清原氏が陸奥の安倍氏を滅ぼす
  • 1083年 後三年合戦 源氏が清原氏の内紛を平定 源氏は武士の棟梁の地位を固める

源氏の進出

10世紀後半から11世紀前半にかけては、武士の家が「つわものの家」として定着してきた時期で、武器も実戦的なものが登場し、武士の間には「弓矢の習い」「兵の習い」という独特の慣習も生じた。主従関係も明確になって、中央貴族の血筋を引くものを棟梁とうりょうにいただき、武家(軍事貴族)を形成し、勢力を築く傾向が強まった。

承平・天慶の乱 源平の進出年表
源平の進出年表 ©世界の歴史まっぷ

なかでも源経基みなもとのつねもとの子源満仲みなもとのみつなかは、摂津を根拠地にして摂関家に仕えていたが、満仲とその子の源頼光みなもとのよりみつ源頼信みなもとのよりのぶ兄弟はさらに摂関家に近づき、その保護を得て棟梁としての勢威を高めた。そうした最中の1028(長元元)年におきたのが平忠常の乱たいらのただつねのらんである。平氏一族は将門の乱後も東国を地盤として栄えていたが、もと上総かずさの国司であった平忠常たいらのただつね(967〜1031)が上総・下総しもうさに勢力を広げて反乱をおこした。

安倍・清原・藤原氏関係図
安倍・清原・藤原氏関係図 ©世界の歴史まっぷ

朝廷は平直方たいらのなおかた(生没年不詳)に追討を命じたが効果がなく、改めて源頼信みなもとのよりのぶ甲斐かいの国司に任命して討たせたところ、忠常は戦わずして降伏したという。頼信の武名を恐れたものとみられ、これをきっかけに、源氏が東国に進出していった。

さらに源氏の東国進出を決定づけたのは、前九年合戦(1051〜1062)である。陸奥では豪族安倍氏の勢力が強大で、国司と争っていたが、源頼信の子源頼義みなもとのよりよしが陸奥守兼鎮守府将軍となって任地に下ると、安倍氏はいったんはこれに服したものの、再び乱をおこした。安倍氏は安倍頼時あべよりときや、頼時の死後は安倍貞任あべさだとう安倍宗任あべむねとう兄弟が頑強に抵抗したため、乱は長期戦となった。源頼義は子の源義家みなもとのよしいえとともに東国の武士を率いて安倍氏と戦い、出羽の豪族清原氏の助けを得てやっと安倍氏を滅ぼした。

その後におきたのが後三年合戦(1083〜1087)である。前九年合戦の後に安倍氏にかわって陸奥・出羽両国で大きな勢力を得た清原氏一族に内紛がおこった。清原真衡きよはらのさねひら(?〜1083)が弟の清原家衡きよはらのいえひら(?〜1087)と争い、真衡の死後は家衡が母の連れ子の清原清衡きよはらのきよひら(1056〜1128)と争っていた。
そこに陸奥守であった源義家が介入し、藤原清衡を助けて清原家衡と戦い、苦戦の末に内紛を平定したのである。

源氏の進出 前九年合戦 前九年合戦・後三年合戦地図
前九年合戦・後三年合戦地図 ©世界の歴史まっぷ

源義家の介入は私合戦とみなされ、朝廷から恩賞は与えられなかったが、これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武士の棟梁としての地位を固めた。
東国武士団のなかには義家に土地を寄進して保護を求めるものが増えたため、政府が慌ててこれを禁止したほどである。このころには地方武士が大名田堵の経営を継承しつつ、開発領主として成長して私領の拡大や保護を求めており、その傾向をとらえた義家が、彼らを家人けにんとして組織していったのである。

東国武士団

源義家が京都に帰ってのち、東国の武士団の多くは家をおこし、開発所領を形成するようになった。後三年合戦で矢を目に射られたにもかかわらず突進した鎌倉権五郎景政かまくらごんごろうかげまさは、相模の大庭御厨みくりや伊勢神宮に寄進しており、同じ相模の三浦氏は相模国の在庁官人となって三浦半島一帯に大きな勢力を築いた。彼らの子孫はその後、都から下ってきた源氏の棟梁である源義朝みなもとのよしともに従い、さらに頼朝に従って鎌倉幕府の形成にかかわっている。

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