執権政治へ 六波羅探題 執権政治 13人の合議制 鎌倉幕府職制(中期)図
鎌倉幕府職制(中期)図 ©世界の歴史まっぷ

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執権政治へ

最近、真の執権政治の確立を、北条泰時の時期に求める説が支持を集めている。泰時以前、政治・裁判の決断権は、基本的には将軍の手中にあった(一時的には13人の合議制などがみられるが)。北条時政北条義時ほうじょうよしときの補佐を受けながら、幕府の意思決定は、政所の活動をふまえて将軍が行った(この考えは、北条政子を実朝死後の実質的な将軍であるとする)。ところが泰時は、将軍から政治・裁判の決断権を奪取し、執権主導の政治体制を確立した、と説くのである。御成敗式目の制定も、将軍権力の後退と軌を一にして説明できる。すなわち、将軍個人の判断を排し、御成敗式目という明確な規範に則して政治・裁判を行う、 という幕府の意思の表明であると解釈できるのである。

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幕府を勝利に導いた北条義時ほうじょうよしときは、承久の乱後、1224(元仁げんにん元)年に世を去った。翌年には大江広元おおえのひろもと、また北条政子ほうじょうまさこが相次いで死去し、幕府政治は新たな局面を迎えた。北条義時ほうじょうよしときについで執権となったのは、六波羅探題ろくはらたんだいとなっていた子の北条泰時ほうじょうやすときである。泰時は合議を重視する行政組織の構築をこころみた。
まず1225(嘉禄かろく元)年に連署れんしょという職を設け、共に六波羅探題をつとめた叔父おじの北条時房をこれにあてた。連署は執権の補佐役であり、以後、北条氏の有力者が任じられることになる。さらに同年、政務に精通した11人の御家人からなる評定衆ひょうじょうしゅうを設置した。評定衆は幕府意思決定の最高機関たる評定の構成員であり、執権・連署とともに重要な政務を議論し、訴訟の採決にも携わった。泰時やすときは御家人の意見をよくくみあげる人事を行い、彼らの中心に執権を位置づけたと評価されている。
北条氏の台頭 北条氏・源氏・藤原北家・皇室系図
北条氏・源氏・藤原北家・皇室系図 ©世界の歴史まっぷ
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連署

北条義時の死後、執権の座をめぐり、北条泰時、政村兄弟の確執があった(義時は政村の生母の伊賀氏に毒殺されたとの風評あり)。泰時は自己の勢力を強化するために、叔父の時房を補佐役に起用した。これが、連署の始まりである。連署の名は、幕府の公的な文書に執権とならんで署名するのに由来する。副執権ともいうべきこの職は、こののち、北条氏一門の有力者が任じられた。

評定衆

幕府の最高意思を決定する議決機関の構成員である。定員はなく、15〜16人であることが多かった。メンバーは文官出身者(二階堂氏・町野氏・長井氏など)、ごく少数の有力御家人(三浦氏・安達氏など)、そのほかは北条氏一門で占められていた。

このころ、法典としては朝廷の律令格式が存在したが、その内容を知る人はごく限られており、ほとんど空文化していた。武家社会においてその傾向はいっそう顕著で、武士たちは自らが育んできた慣習や道徳を重んじて日常生活を営み、また紛争を処理する規範としていた。しかし、当時道理と呼ばれたそうした慣習や道徳は、種々の事情に基づいて長い歳月を経て定着したものだけに、あるいは地域によって異なり、あるいは相互に矛盾して整合性をもたなかった。そのため武士の土地支配が進展して所領問題が全国各地で頻発するようになると、漠然と道理にしたがうというだけでは、紛争を解決することが困難になっていった。争いが武士と荘園領主との間におこった場合は特にむずかしく、幕府は明確な判断の基準を定める必要に迫られた。

そこで北条泰時は、1232(貞永元)年、武家の根本法典として、御成敗式目ごせいばいしきもくを定めた。制定時の元号から、貞永式目じょうえいしきもくともいわれている。文章はあまり教養のない武士たちにも理解できるように、平易に記述されている。51カ条からなる簡素なものであるが、源頼朝以来の先例や道理に準拠しながら、行政、民事、刑事訴訟に関する大網を盛り込んでいる。むろん先述したように、先例も道理もさまざまに存在し、互いに相反するものすらあったから、幕府はそのうちから最も適当と判断したものを選択し、法文化したのであった。この意味で、法の制定者としての幕府の主体的な努力は、高く評価することができる。

この式日は、守護を通じて諸国の御家人に伝達されたが、これが適用されるのはあくまでも幕府の勢力範囲においてであった。朝廷や荘園領主のもつ規範を、幕府は決して否定していない。したがって、朝廷の支配下では律令の系統を引く公家法が、荘園領主の支配下ではその地に根ざした本所法ほんじょほうが、依然として効力をもっていた。しかし、幕府勢力の伸張とともに、やがてこの式目の適用範囲は、全国的な規模へと広がっていった。

御成敗式目図

御成敗式目

式目の式は式条、目は目録の意。成敗とは理非りひを裁決する、ということで、式目の内容が裁判の規範を示すものであったためにこの名が付された。1232(貞永元)年、式目制定時に北条泰時が弟北条重時ほうじょうしげとき(当時、六波羅探題)に送つた手紙が2通残っている。そこで泰時は律令の有効性を強調し、式目の適用は武家社会に限定するという。しかし、すでに律令を知る者は世間にほとんどなく、朝廷ですら律令に依拠する政治を行おうとはしていなかったのが、当時の実状であった。それゆえ、平易な御成敗式目の登場は画期的で、武家はもちろん公家や寺社、それに一般の人々にも大きな影響を与えた。

御成敗式目が発布されてのち、必要に応じてこの規定を改正・補足する法令が出された。これらは式目追加、あるいは追加法と呼ばれ、鎌倉時代を通じて600条余りの制定が確認されている。ただし、追加法の多くは個別の事件に即して作成されたらしく、事件の当事者以外の一般の人々の耳目にふれる機会は少なかった。諸国の御家人に周知徹底された式日本文とはこの点で性質が異なっていて、効力はきわめて限られていた。

最近、真の執権政治の確立を、北条泰時の時期に求める説が支持を集めている。泰時以前、政治・裁判の決断権は、基本的には将軍の手中にあった(一時的には13人の合議制などがみられるが)。北条時政や北条義時ほうじょうよしときの補佐を受けながら、幕府の意思決定は、政所の活動をふまえて将軍が行った(この考えは、北条政子を実朝死後の実質的な将軍であるとする)。ところが泰時は、将軍から政治・裁判の決断権を奪取し、執権主導の政治体制を確立した、と説くのである。御成敗式目の制定も、将軍権力の後退と軌を一にして説明できる。すなわち、将軍個人の判断を排し、御成敗式目という明確な規範に則して政治・裁判を行う、 という幕府の意思の表明であると解釈できるのである。

北条泰時の執権政治を継承し、発展させたのは、彼の孫(子の諄民は早世)にあたる北条時頼ほうじょうときより(1227~1263)であった。時頼は裁判制度の確立につとめ、1249(建長元)年に引付衆ひきつけしゅうをおいた。引付衆は評定衆を助けて、文書の審理と訴訟の採決にあたるものである。初め三方さんぽうが設けられ、のち五方ごほうに拡充された。一方ごとに1名の引付頭人、数名の引付衆(うち2名ほどは評定衆兼務)、数名の引付奉行を配置し、訴訟審理の促進をはかることにした。

北条時頼は制度を改革するとともに、政務の実権を北条本家の得宗家とくそうけに集中していった。1246(寛元4)年、時頼は北条一族の名越家なごえけの勢力を幕府から一掃した。名越家は得宗家に最も近い家で、前将軍の頼経と結んで執権の座の奪取を企てていたのである。評定衆数名も名越派として処罰され、頼経は京都に送り返された。ついで翌1247(宝治元)年には、北条氏とならぶ有力御家人、三浦泰村みうらやすむら(?~1247)が滅ぼされた。北条時頼は母の実家安達氏に命じて三浦氏を挑発し、ついに合戦の末に三浦一族を自害に追い込んだ。これを宝治合戦ほうじがっせんという。さいに1252(建長4)年、北条氏討伐の陰謀に加担したとして、将軍藤原頼嗣ふじわらのよりつぐ(頼経の子)が廃された。時頼は新たな将軍として、念願の親王を京都から迎えた。後嵯峨上皇の皇子の宗尊親王むねたかしんのう(1242〜1274)である。以後、幕府の終演まで、将軍職は代々親王によって受け継がれた。これを親王将軍宮将軍という。

政敵を打倒して政局を安定させた時頼は、民衆の生活の向上をめざして、統治に全力を傾注した。彼が目標として掲げたスローガンは「撫民」(民衆を愛せよ)であった。一方、当時の朝廷では、「徳政」(徳のある政治)が強調されていた。東西の幕府と朝廷は手を携えて、統治の実現に努力したのである。

承久の乱後の朝廷

幕府との戦いに敗れた朝廷は、絶えず幕府の監視を受けることになった。朝廷が独自の軍事力をもつことは厳しく制限された。天皇家領はいつたん没収されたうえで、幕府の「御恩」として朝廷に返された。皇位の継承すらも、幕府の許可を得て行われるようになった。乱後の朝廷においては、4代将軍頼経の父の九条道家くじょうみちいえ(1193~1252)が、幕府の援助を得て実権を掌握した。道家は公卿合議を重んじて朝政の立て直しにつとめたが、鎌倉で藤原将軍が力を失うと失脚に追い込まれた。ついで指導者になったのが後嵯峨上皇で、上皇は幕府にならって評定衆をおき、有能な公卿くぎょうをこれに任じた。上皇は彼らとの合議を重んじ、幕府の意向も考慮しながら、施政を進めた。こののち朝廷では幕末まで院政がしかれるが、それは後鳥羽上皇のときのような専制を指向するものではなく、後嵯峨上皇の姿勢を継承し、有能な廷臣ていしんの合議に立脚するものであつた。

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