古都奈良の文化財 薬師寺 白鳳文化
大池からみた薬師寺Source Wikipedia

4. 白鳳文化

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白鳳文化

7世紀後半から8世紀初頭にかけて、清新な文化が栄えた。これを白鳳文化と呼んでいる。天武天皇は伊勢神宮を中心とする神祇制度の整備を進め、大嘗会の制を確立したが、同時に仏教も篤く保護するとともに、国家による統制を強め、国家仏教の確立をめざした。

白鳳文化

7世紀後半から8世紀初頭にかけて、清新な文化が栄えた。これを白鳳文化と呼んでいる。

寺院

天武天皇は伊勢神宮を中心とする神祇制度じんぎせいどの整備を進め、大嘗会だいじょうえの制を確立したが、同時に仏教あつく保護するとともに、国家による統制を強め、国家仏教の確立をめざした。

大嘗会だいじょうえとは、天皇が即位したのち、最初に挙行する大規模な新嘗祭にいなめさいのこと。 大嘗宮を臨時に造営して祭場とする。天武・持統朝のころから始まったとされる。平城宮跡で奈良時代の3時期にわたる大嘗宮跡が発掘されている。

大官大寺だいかんだいじ薬師寺などの官立の大寺を建立する一方、金光明経こんごうみょうきょうなどの護国経典を説く法会ほうえが全国で行われた。地方豪族の間にも、氏寺うじでらを建立する傾向が強まり、692(持統天皇6)年の調査では、全国の諸寺は545カ所に達したという。

大寺とは、伽藍がらんの造営や維持の費用を国家から受ける寺。のちには大寺・国分寺・有食封寺・定額寺の等級を生じた。 天武朝においては、官司が治める大寺としては、大官大寺(百済大寺を改めたもの。のちの大安寺だいあんじ)・薬師寺・川原寺・飛鳥寺(のちの元興寺)があった。

この時代の建築物としては、飛鳥時代の様式に基づいて再建された法隆寺の金堂・法隆寺五重塔・中門・歩廊ふろう(回廊)や薬師寺東塔があるが、近年、山田寺の回廊が建築時の姿のまま発掘され、わが国最古の建築遺構とされている。

山田寺回廊

1982(昭和57)年、山田寺の発掘調査で、塔の東側において、東回廊が西側に倒壊したままの状態で発見された。 柱や連子窓れんじまどをはじめ、つか腰長押こしなげし小脇壁こわきかべ頭貫かしらぬき斗栱ときょう間小壁・巻斗まきとが、7世紀中頃に建てられた姿そのままで基壇上に横倒しになっていたのである。
赤色顔料や上塗りの白土までもが残っており、当時の色彩さえもうかがうことができる。柱や連子子れんじしなどの部材は、法隆寺の歩廊に比べると太く、重厚なつくりとなっている。 法隆寺が再建されたものであることが確実になった今、この東回廊は、現存する日本最古の建築物ということができる。 なお、東回廊は、科学的な保存処理が施され、復元が完成して奈良文化財研究所飛鳥資料館において展示・公開されている。 飛鳥資料館|公式サイト

律令国家の成立
山田寺東回廊 Source飛鳥資料館

彫刻

彫刻では、柔らかい表現の中に堂々とした威厳を保つ薬師寺金堂薬師三尊像(金銅像)をはじめ、美しさでは比類のない薬師寺東院堂聖観音像(金銅像)、伸びやかで若々しい表情の興福寺仏頭(もと山田寺の薬師三尊像本尊の頭部、金銅像)などが、傑作として知られている。法隆寺の阿弥陀三尊像(金銅像)や夢違観音像ゆめたがいかんのんぞう(金銅像)も、この時代の作品である。

絵画

法隆寺金堂壁画
法隆寺 金堂壁画 ©Public Domain
白鳳文化
高松塚古墳壁画 Source Wikipedia

絵画では、法隆寺金堂壁画が、インドのアジャンター石窟群の壁画や中国の敦煌石窟壁画の様式を取り入れた傑作である。また、高松塚古墳壁画は、石室の天井に星宿せいしゅく、壁面に四神や男女群像を極彩色で描いたもので、高句麗の古墳壁画の影響を受けている。

高松塚古墳

奈良県明日香村にある終末期古墳で、直径18m、高さ5mの円墳。凝灰岩の切石を組み合わせた横口式石槨をもつ。 石室の壁面に漆喰が塗られ、天井中央部に天極五星、四輔四星しふしせいと二十八宿の星辰、東壁面に日像と青龍、男女各4人の人物群像、西壁面に月像と白虎、男女各4人の人物群像、北壁面に玄武の壁画が描かれていた(南壁面は盗掘口あり、壁面は確認されなかったが、元々は朱雀が描かれていた)。 石槨内に星辰、日月、四神、人物群像を描いた古墳は、高句麗にもみられるものである。壁画は高句麗系の4人の画師の手になるものと推定されている。
星辰や日月を配した世界観、海獣葡萄鏡や銀装大刀などの豪華な副葬品、終末期古墳という時期などから、成人男性の人骨とされる被葬者は7世紀末から8世紀初頭に死去した天武天皇の息子のうちの一人と考える説が有力である。 なお、同じ明日香村のキトラ古墳にも、四神や星宿が描かれていることが確認されたが、両者とも劣化する壁画の保存が大きな課題となっている。


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漢詩文

白村江の戦いののち、百済から大量の貴族・文人が亡命してきたこともあって、天智朝以降の宮廷では、漢詩文をつくることが盛んになった。大友皇子大津皇子の優れた漢詩は、奈良時代後期に編纂された『懐風藻かいふうそう』に収められている。

和歌

一方、古来から口誦こうしょうで伝えられてきた歌謡も、漢詩の影響を受けて、五音や七音を基本とする長歌・短歌の形式が定まった。 また、7世紀からはこれを漢字を用いて日本語表記することが始まり、本格的な和歌が成立した。これも奈良時代後期に成立した『万葉集』からうかがうと、初期の和歌の作者には、斉明天皇らの天皇や額田王らの王族が多く、集団性、呪術性、自然との融和性などを特徴とするが、芸術的な自覚や個性には乏しい。 次の時期になると、柿本人麻呂かきのもとのひとまろが出現し、和歌の表記法を確立した。人麻呂は、持統朝から文武朝にかけて全盛期を迎えたが、枕詞や対句を駆使した長大な形式の長歌によって、天皇制や律令国家の創設期でもあるこの時代の空気を高らかにうたった。この時期の和歌は、華麗な技巧が増すものの、なお線の太い明るさを保っている。また宮廷文人の作品がいまだ民衆的エネルギーを失わず、氏族制的な精神が個人と集団との間になお保たれているのも特徴である。

薄葬令と終末期古墳・火葬

『日本書紀』によると、646(大化2)年3月に喪葬そうそうにかかわる詔が出された。これを「大化の薄葬令」と呼んでいる。 その中では、古い習俗を禁止したうえで、新しい葬制を詳細に定めている。王以上・上臣・下臣から庶民にいたる6段階の身分により、石室の長さ・広さ・墳丘の方・高さ、役夫の数、葬具について、細かく規定している。これによると、墳丘を設ける(つまり古墳を造営する)ことができるのは、下臣(のちの五位)以上であり、結果的に従来と比べてはるかに薄葬(簡素化)の規定となっている。 これ以降、横口式石槨を内部構造とする一部の例外的な円墳、もしくは八角墳を除いて、古墳は消滅する。この7世紀後半から8世紀初頭にかけての例外的な古墳を終末期古墳と称して、とくに区別することがある。 高松塚古墳・キトラ古墳・束明神古墳(草壁皇子の墓か)・中尾山古墳(文武陵か)など、終末期古墳は奈良県飛鳥地方を中心に分布する。
一方、火葬は仏教徒に特有の埋葬法で、日本では700(文武天皇4)年の道昭どうしょうや、702(大宝2)年の持統太上天皇、707(慶雲4)年の文武天皇が早い例であり、薄葬思想の隆盛とともに盛んになった。なお、天武・持統合葬陵である野口王墓に持統の骨蔵器が存在したことは鎌倉時代の記録にみえ、文武陵と推定される中尾山古墳も火葬墓である。