東アジアと日本
10世紀ころから、中国大陸北方の遊牧狩猟民族の活動がにわかに活発になった。東部内蒙古に契丹がおこって遼(王朝)を建て、ついで北満洲の女真が金(王朝)を建て、さらにモンゴル帝国が出現する。1125年に遼(王朝)を滅ぼした金(王朝)は、続いて1127年、南下して宋の都開封を占領した。宋王室の一人高宗(宋)は江南に逃れて南京で即位し、王朝を再建した。これが平清盛が交易をおこなった南宋である。
東アジアと日本
10世紀ころから、中国大陸北方の遊牧狩猟民族の活動がにわかに活発になった。東部内蒙古に契丹(916~125)がおこって遼(王朝)を建て、ついで北満洲の女真が金(王朝)(1115〜1234)を建て、さらにモンゴル帝国が出現する。彼らの急激な興隆の主要因の一つは、新たな製鉄技術の獲得であるといわれる。鉄の生産力の増大は、優秀な武器や蹄鉄を彼らにもたらした。遊牧民族の騎兵たちは圧倒的なスピードをもってユーラシア大陸を疾駆し、勢力を拡大していった。
1125年に遼(王朝)を滅ぼした金(王朝)は、続いて1127年、南下して宋の都開封を占領した。宋王室の一人高宗(宋)(在位1127〜62)は江南に逃れて南京で即位し、王朝を再建した。これが平清盛が交易をおこなった南宋(1127〜1276)である。日宋間に正式な国交は開かれなかったが、私貿易は平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んであった。取引品のうち,日本からの輸出品は金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器・扇などで、唐物と呼ばれて珍重された輸人品は陶磁器・絹織物・香料・薬品・書籍(『太平御覧』や「一切経」)・銭などであった。このうち香料・薬品は東南アジア原産の品が南宋を経由して流入していたのであり,日本は南宋を中心とする通商圏に組み込まれていた。また宋の銭貨は南宋側がその流出を防ごうとしたほどに大量に日本にもたらされ,日本国内各地に急速に貨幣経済が浸透していった。
文化面でも交流も著しかった。特に注目すべきは禅僧の動向で、栄西(1141〜1215)・道元(1200〜53)をはじめ80数名が入宋し、蘭渓道隆(1213〜78)ら20数名の僧が来日した。彼らは宗教ばかりでなく,大陸のさまざまな文化を日本に紹介した。封建社会の基本思想となった朱子学(宋学)も、喫茶の風習も、禅僧によって伝えられた。入宋僧を自称する重源(1121〜1206)や宋人の陳和卿(生没年不詳)によって東大寺大仏が再建されたのもこの時代である。