第一次世界大戦 ペトログラード 同盟国 第一次世界大戦 第一次世界大戦の勃発 第一次世界大戦中のヨーロッパ
第一次世界大戦中のヨーロッパ ©世界の歴史まっぷ

第一次世界大戦

イギリスは、東シナ海におけるドイツの武装商船撃破のため、日本に参戦を求めたが、第2次大隈内閣は加藤高明外相が中心となり、列強の関心がヨーロッパに集中しているすきに、東アジアにおける日本の諸権益を強化し、地位を確固たるものにする機会だと考え、軍事行動を海上作戦に限定するよう求めたイギリスの要請には応ぜず、参戦の根拠を広く日英同盟協約におくこととして、1914(大正3)年8月対独宣戦を布告し、連合国陣営に加わった。

第一次世界大戦

同盟外交の展開と列強の二極分化 三国同盟 三国協商 第一次世界大戦前の国際関係図 露仏同盟
第一次世界大戦前の国際関係図 ©世界の歴史まっぷ
61.列強の国際対立の激化
20世紀初めの国際関係 ©世界の歴史まっぷ

19世紀末以来、ヨーロッパでは国家統一を実現したドイツ帝国が急速な発展をとげ、皇帝ヴィルヘルム2世 の積極的な世界政策のもとに、イギリスに対抗して中近東に進出をはかり、大規模な海軍拡張計画を推し進めてイギリスを脅かした。イギリスは日英同盟協約 締結以後、「光栄ある孤立」を放棄し、まず1904(明治37)年、英仏協商 を結び、さらに日露戦争 後、ロシアとの対立も緩和されたので、1907(明治40)年に英露協商 を結んだ。ここに 露仏同盟 (1891)と併せて 三国協商 が成立し、ドイツの進出に対する包囲体制ができあがった。これに対してドイツは、先にイタリア・オーストリア=ハンガリーと結んだ 三国同盟 (1882)の強化をはかり、とくにオーストリアとの軍事的協力を深めた。1905(明治38)・1911(明治44)年の2度にわたり、モロッコをめぐって独仏の対立が尖鋭化し、またバルカンをめぐって、協商側と同盟側の紛争がしばしばおこった。

バルカンの動揺

当時バルカン( Balkan )地方には多くの少数民族が群居し、民族・宗教・言語問題など複雑な利害対立を生み出していた。1912·13年には2回にわたるバルカン戦争(第1次バルカン戦争・第2次バルカン戦争)がおこったが、列強はこれを利用して、こぞってバルカンヘの進出を試み、「ヨーロッパの火薬庫」といわれるほど、対立は深刻なものとなっていった。
第1次バルカン戦争 第2次バルカン戦争 バルカン同盟
バルカン戦争勢力図 ©世界の歴史まっぷ

なかでも、日露戦争後、ロシアがパン=スラヴ主義を唱えて、セルビア人らバルカンのスラヴ系諸民族の結集をはかりつつ進出を策し、パン=ゲルマン主義をかかげてこの地域での勢力拡張をはかろうとするドイツやオーストリア=ハンガリーとの対立が激化した。このようにバルカン地方では、一触即発の国際的緊張が高まっていった。

1914(大正3)年6月、ボスニアの首都サライェヴォを訪問中のオーストリア皇太子(帝位継承者)夫妻が、反オーストリア秘密結杜に属するセルビア人青年によって暗殺された(サライェヴォ事件)。この事件は一瞬のうちに国際危機を爆発させ、全ヨーロッパをたちまち戦争の嵐に巻き込んだ。同年7月、まずオーストリアがセルビアに宣戦を布告し、ついで8月には、ドイツがオーストリアの側に立ち、ロシア・イギリス・フランスなどがセルビアに味方して、つぎつぎと参戦し、全ヨーロッパを戦争に巻き込んで史上空前の第一次世界大戦が始まった

ドイツ・オーストリア側を 同盟国、イギリス・フランス・ロシア・日本側を 連合国 と呼ぶ。なお、イタリアは領土問題などをめぐってオーストリアと対立し、1915年、三国同盟を破棄して連合国側に加わった。また、ブルガリアとオスマン帝国は同盟国側に加わった。
第2次大隈内閣
第2次大隈内閣©世界の歴史まっぷ

イギリスは、東シナ海におけるドイツの仮装巡洋艦(武装商船)の撃破のため、日本に参戦を求めた。しかし、日本政府(第2次大隈内閣)は外務大臣加藤高明が中心となり、列強の関心がヨーロッパに集中しているすきに、東アジアにおける日本の諸権益を強化し、その地位を確固たるものにするよい機会だと考え、軍事行動を海上作戦に限定するよう求めたイギリスの要請には応ぜず、参戦の根拠を広く日英同盟協約におくこととして、1914(大正3)年8月対独宣戦を布告し、連合国陣営に加わった。そして3カ月ほどで、日本陸軍は東アジアにおけるドイツの重要な根拠地である中国山東省の青島を、海軍はドイツ領の南洋諸島(赤道以北)を占領し、ドイツの勢力を東アジア・オセアニアから一掃した。また連合国の要請で、日本の艦隊が地中海に出動して警戒にあたり、ドイツ海軍と交戦した。

加藤高明外相の参戦発言

「斯かる次第で日本は今日同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場には居ない。条文の規定が日本の参戦を命令するやうな事態は今日の所では未だ発生して居ない。ただ一は英国からの依頼に基づく同盟の情誼とーは帝国が此機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高める利益とこの二点から参戦を断行するのが機宜の良策と信ずる。」

これは1914(大正3)年8月7日、大隈首相邸で開かれた緊急臨時閣議における加藤外相の発言の一節である。加藤はさらに「参戦せず単に好意の中立を守って、内に国力の充実を図るのも一策」と、いくつかの選択肢を示したが、閣議は結局「同盟による義務であると同時に遼東還付(三国干渉)に対する復讐戦である」と断じて参戦に踏み切り、8月23日、ドイツに宣戦を布告した。

61.列強の国際対立の激化
61.列強の国際対立の激化流れ図 ©世界の歴史まっぷ
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