古墳の終末
6世期末から7世紀初め、ヤマト政権による強力な規制の結果、前方後円墳の造営が終わるがなお100年ほど古墳の造営は続く。考古学ではこの時代を古墳時代終末期と呼び、日本史の時代区分でいえば、飛鳥時代に相当する。
古墳の終末
6世期末から7世紀初めになると、大王をはじめ各地の有力な首長たちが構築していた前方後円墳の造営が終わる。各地でのその終末の時期がほぼ同じであるのは、ヤマト政権による強力な規制の結果と考えるほかない。この時期中国では、隋が南北統一を達成し、270年ぶりに中国に統一的な中央集権国家が誕生する。そして隋は598年には高句麗を攻め、朝鮮半島へ進出する姿勢を示す。こうした東アジアの動向が朝鮮半島諸国や倭国に大きな危機感を与えたことはいうまでもなかろう。倭国では古い首長連合体制やその象徴にほかならない前方後円墳と決別することを内外に示し、大王を中心とする中央集権的な国家形成を目指すようになるのである。
前方後円墳の造営が停止されても、古墳の造営はなお100年間ほど続く。考古学ではこの時代を古墳時代終末期と呼び、この時期の古墳を終末期古墳と呼ぶ。ただここでいう「古墳時代」とは、古墳の造られた時代をすべて「古墳時代」と呼ぶ考古学での便宜的な区分法である。日本史の時代区分でいえば、この時代はまさに飛鳥時代に相当する。
終末期になると、かつて前方後円墳を営んでいた支配層は、大型の方墳や円墳を営むようになる。近畿地方では方墳としては大阪府春日向山古墳(現・陽明天皇陵、一辺約60m)、円墳としては奈良県塚穴山古墳(径65m)などがあり、地方では方墳としては千葉県龍角寺岩屋古墳(一辺80m)、円墳としては栃木県壬生車塚古墳(径80m)などがある。
近畿より関東地方に大規模な終末期古墳がみられるが、それらは国造に任じられた東国豪族が営んだものと考えられている。
さらに7世紀の中頃から8世紀初頭には、近畿の大王が八角墳を営むようになる。これはそれまで規模は大きいが、各地の有力首長層と同じ前方後円墳、あるいは方墳を営んでいた大王が、大王にのみ固有の八角墳を営んで、一般の豪族層を超越した存在であることを墳墓造営の上でも示そうとしたものであろう。その後もなおしばらくの間、有力な首長層は古墳の造営を続けるが、7世紀も終わり近くになると、彼らも顕著な古墳をいとまなくなり、大王とその一族、さらにその支配を助けたごく一部の有力支配層だけが墳丘をもつ小古墳を営んだらしい。こうした前方後円墳の造営停止、大王墓の八角墳化、さらに有力豪族層の古墳の造営停止などの動きは、まさに大王を中心とする中央集権国家への動きから律令国家の形成に対応するものにほからならないのである。