村と百姓
四季農耕図屏風(国立歴史民俗博物館蔵)画像出典:わくわく!探検 れきはく日本の歴史: 近世

村と百姓

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村と百姓

村には、百姓の労働と暮しを支える自治的な組織があり、農業生産のうえに成り立つ幕藩体制にとっては、最も重要な基盤となった。百姓の経営をできるだけ安定させ、一方で貨幣経済に巻き込まれないようにし、年貢・諸役の徴収を確実にするための対策をとった。1643(寛永20)年田畑永代売買の禁令、1673(延宝元)年分地制限令、田畑勝手作りの禁。

村と百姓

は、百姓の家屋敷がいくつも集まった集落を中心に、田畑の耕地や野・山・浜を含む広い領域をもつ小社会(共同体)である。集落はムラ・組・坪などとも呼ばれ、地形的に隔たりをもつ、いくつかの集落を合わせて一村とした。もっともこの村も豊臣政権以後、徳川政権において継承された兵農分離政策と検地によって、中世までの惣村郷村を分割(村切り)してつくられたもので、行政的な意味合いをもっていた。村には、百姓の労働と暮しを支える自治的な組織があり、農業生産のうえに成り立つ幕藩体制にとっては、最も重要な基盤となった。

17世紀末には、全国の村数は6万余りになったが、そのころの総石高は約2500万石であったから、1村の平均村高は400石余りとなった。6万を超える村は、農業を主とする農村がほとんどであるが、漁村や山村、在郷町ざいごうちょうのような小都市などもみられた。

村は、名主なぬし(西国では庄屋、東北では肝煎きもいりと呼ぶところが多い)や組頭百姓代からなる村役人(村方三役むらかたさんやく)を中心とする本百姓によって運営された。村役人は世襲や協議·入札(選挙)などの方法で選出された。農業生産にとって不可欠の用水や、刈敷かりしき(肥料)や馬草まぐさ(秣)を採る山野の管理は重要で、このほか治安や防災なども村は自主的に管理した。また田植え・稲刈りや屋根葺きに際して、村人はゆいもやいなどと呼ばれる共同作業の互助組織をつくった。このほか村内の山野を村人が共同で利用する入会地いりあいちや、地域の数カ村で山野を共同利用する入会の場合もあり、村は大小の共同組織・結合によって支えられていた。

村の運営は村法(村掟)に基づいて行われ、これにそむくと村や五人組の共同組織から排除される村八分組落ちなどの制裁が加えられた。幕府や大名・旗本は、このような村の自治に依存して、はじめて年貢・諸役の割当てや納入を可能とし、村民を掌握することができた。このような仕組みを村請制むらうけせいと呼ぶ。また、村民は数戸ずつ五人組に編成され、年貢納入や犯罪防止に連帯責任を負わされたほか、村の共同経費(村入用)を負担し合った。

村落を運営するため、村民から徴収した費用のことである。村役人の給金、用水の維持費など、さまざまな共通経費に支出した。

村内には、いくつかの階層が存在した。近世初頭には中世の名主みょうしゅや地侍の系譜をひく有力百姓が複合大家族経営を行なっている場合がみられ、その後の開発で耕地拡大が進むと、やがて17世紀なかごろには弟夫婦など傍系家族が分家したり名子なご被官ひかんなどの隷属農民が自立し、一夫婦単位の家族(単婚家族)を形成するようになる。こうした家族は、検地帳に登録されて高請地たかうけちとなった田・畑、家屋敷をもち、年貢·諸役をつとめ、村政に参加する本百姓ほんびゃくしょう高持たかもち)としては対等になったが、本家と分家のような序列や隷属農民から自立したかつての関係を残す場合もあった。これら高持の本百姓ではなく、田・畑をもたず、地主のもとで小作を営んだり、日用ひよう日雇ひよう)仕事に従事する水呑みずのみ無高むだか)も存在した。また、漁村では網元あみもと網子あみこのような経営をめぐる階層区分もあった。村には寺院や神社がつくられ、そこは村の人々の相互の結びつきや信仰を支える場となった。寺院の僧侶や神社の神職は、村役人とは別に村のまとめ役を果たすこともあり、このほか鍛冶・大エなどの職人や商人なども居住することがあった。

本百姓の負担(江戸時代)

本途物成
( 本年貢)
田畑・屋敷地に課せられる年貢。本途物成とか本年貢· 正税ともよばれた。米納が原則だが, 畑・屋敷地は現物納・金納(検見法と定免法、初期は四公六民、のちには五公五民の年貢率)
小物成
(雑税)
小年貢ともよばれた。山林· 原野・河海の用益またはその産物を対象に課された租税。農業以外の副業に課せられる雑税で近世前期では米納または現物納であったが、中期以降は金納化していった
国役河川の改修、日光社参や朝鮮使節来日の人馬費用などについて、1 国単位に課税
伝馬役街道の輸送のために課せられた人馬の夫役。人馬不足の際、補助人足を出すよう指定された村々を助郷という
高掛物
(高掛三役)
伝馬宿入用:五街道の問屋・本陣の給米、宿場入用の殺用
六尺給米:江戸城内の六尺(賄方) の給米
蔵前入用:浅草にある幕府米蔵の維持費

百姓の負担には、本田畑と屋敷にかけられる年貢(本途物成ほんとものなり)がある。年貢率は四公六民から五公五民、つまり石高の40〜50%で、米穀や貨幣で領主に納められた。年貢の率はその年の収穫に応じて決める検見法けんみほうと、一定期間同じ率を続ける定免法じょうめんほうとがあった。年貢のほかに山野河海さんやかかいの利用や農業以外の副業などに小物成こものなりがかけられ、一国単位で河川の土木工事の夫役労働などにかりたてられる国役や街道宿駅の公用交通に人や馬をさし出す伝馬役、周辺の村々で宿駅の応援にかり出される助郷役も百姓にとって負担となった。

幕府は百姓の経営をできるだけ安定させ、一方で貨幣経済に巻き込まれないようにし、年貢・諸役の徴収を確実にするための対策をとった。1643(寛永20)年に出された田畑永代売買の禁令は、百姓の土地が売られて地主と小作の関係になるのを防ぐ目的があり、1673(延宝元)年には、分家をして自立するのに歯止めをかける分地制限令を出して、分割相続による田畑の細分化を防いだ。さらに、田畑勝手作りの禁によって本田畑に五穀(米・麦、きびあわ、豆)以外の作物(タバコ・綿花・菜種など)を自由に栽培することを禁じた。

分地制限令:1673(延宝元)年に、名主は20石、一般百姓は10石以上の田畑をもたないと分地ができないと定め、1713(正徳3) 年にいたってはすべて分地は分割高・残高ともに高10石・段別1町以上なければならないとした。
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