秀吉の対外政策と朝鮮侵略
16世紀後半の東アジアでは朝貢貿易と海禁政策を基本とする中国中心の伝統的な国際秩序が、明(王朝)の国力の衰退により変化しつつあった。全国を統ーした秀吉は、この情勢のなかで日本を中心とする新しい東アジアの国際秩序をつくることを志した。秀吉はゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)などに対し、服属と入貢を求めたが、それは、秀吉のこの対外政策の表れであった。
秀吉の対外政策と朝鮮侵略
秀吉は、初めキリスト教の布教を認めていたが、しだいに秀吉のつくりあげようとした国家体制にキリスト教が妨げになると考えるようになった。1587(天正15)年、島津氏征討のため九州に赴いた秀吉は、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会の教会に寄付していることなどを知り、まず大名らのキリスト教入信を許可制にした。このとき秀吉は、キリシタン大名の中心的存在であった播磨国明石城主高山右近(1552〜1615)に棄教を迫ったが拒否したため、その領地を没収した。これはキリシタン大名の増加と彼らの連携を警戒した秀吉による一種のみせしめであったが、一般人の信仰は「その者の心次第」として禁じなかった。ところがこの直後、秀吉は突然バテレン(宣教師)追放令を出して宣教師の国外追放を指令した。宣教師が神社仏閣を破壊しているというのが直接の理由であったが、キリスト教と南蛮貿易を分離できると考えた秀吉は、ポルトガル船や商人の来航は従来通り認める方針をとった。また1588(天正16)年、秀吉は海の惣無事令ともいうべき海賊取締令を出して倭寇などの海賊行為を禁止し、海上の平和を実現するとともに、ー方では京都·堺・長崎・博多の豪商らの東アジア諸国への渡航を保護するなど、南方貿易を奨励した。このような貿易の奨励は、結果的にキリスト教の取締りを不徹底なものにし、キリスト教はなお各地に広がっていった。ところが1596(慶長元)年、スペイン船サン゠フェリペ号が土佐に漂着したとき、乗組員の不用意な発言とポルトガル人の讒言からスペインが領土拡張に宣教師を利用しているという話が伝わり(サン゠フェリペ号事件)、これを知った秀吉は、スペイン系のフランシスコ会を中心とする宣教師・信者26名を捕え、長崎に送って処刑した(26聖人殉教)。その背景には、日本への布教のため進出したスペイン系のフランシスコ会とイエズス会との対立があったが、この事件は日本の支配者層の間にキリスト教に対する野戒心を植えつけることになった。
16世紀後半の東アジアでは朝貢貿易と海禁政策を基本とする中国中心の伝統的な国際秩序が、明(王朝)の国力の衰退により変化しつつあった。全国を統ーした秀吉は、この情勢のなかで日本を中心とする新しい東アジアの国際秩序をつくることを志した。秀吉はゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)などに対し、服属と入貢を求めたが、それは、秀吉のこの対外政策の表れであった。
1587(天正15)年、秀吉は対馬の宗氏を通して、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導とを求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は出兵の準備を始め、肥前の名護屋に本陣を築き、1592(文禄元)年、15万余りの大軍を朝鮮に派兵した(文禄の役)。釜山に上陸した日本軍は、新兵器の鉄砲の威力などによってまもなく漢城(現、ソウル)をおとしいれ、さらに平壌(ピョンャン)も占領した。このころ秀吉は、後陽成天皇を北京に移し、豊臣秀次を中国の関白に任命するという途方もない計画をいだいていたが、まもなく李舜臣(1545〜98)の率いる朝鮮水軍の活躍や義兵(義民軍)の抵抗、明(王朝)の援軍などにより日本軍は補給路を断たれ、しだいに戦局は不利になった。とくに李舜臣が禅入した亀甲船は、船体に槍をまとった頑強なつくりと火器中心の戦法で、斬り込みを得意としていた日本水軍に大きな打撃を与えた。そのため、小西行長(1558〜1600)を中心とする現地軍は休戦し、秀吉に明(王朝)との講和を勧めた。1593(文禄2)年から始まった和平交渉では、明の降伏(明の皇女と天皇との婚姻)、勘合貿易の再開、朝鮮南部の割譲などを求めた秀吉の要求は、講和を急ぐ小西行長や明側将軍の手で握りつぶされ、正確に伝達されなかった。そのため、明は1596(慶長元)年に使者を派遣し、秀吉に対して「汝を封じて日本国王となし」、その朝貢を許すという態度をとったので、秀吉は激怒し、交渉は決裂した。
1597(慶長2)年、秀吉は再び朝鮮に14万余りの兵を送ったが(慶長の役)、日本軍は最初から苦戦をしいられ、翌年に秀吉が病死すると、撤兵した。この戦いでは、秀吉が戦功の証として首のかわりに鼻をもち帰らせたため、兵士ばかりでなく民間の人に対しても鼻切りが行われ、戦後の朝鮮には鼻のない人々がちまたにあふれたという。
前後7年に及ぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱と呼ばれ、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた。また国内的には、ぼう大な戦費と兵力を無駄に費やした結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。朝鮮侵略は秀吉の誇大妄想によって引きおこされた面が強いが、一方では日本国内における知行地の不足を解決するための領土拡大戦争としての性格ももっていた。
日本軍の苦戦
1592(文禄元)年4月の釜山上陸に始まる文禄の役は、当初日本軍が圧倒的な優位に立ち、開戦からわずか2カ月にして平壌(ピョンャン)を陥落させるほどの猛攻をみせたが、朝鮮水軍の活躍や義兵の蜂起、明(王朝)の参戦などでしだいに戦況が膠着し、前線への食糧補給も滞りがちとなった。日本軍を最も苦しめたのは、慣れない冬の寒さであり、その年、各地の日本軍は十分な食糧も防寒着もないまま朝鮮奥地での越冬を余儀なくされた。翌年1月平壌で大敗を喫した日本軍は、雪を口に含んで飢えをしのぎ、凍結した大河をいくつも渡りながら撤退したが、その間、草鞋履きの兵の多くが凍傷で足の指を失い、栄養不足から鳥目になる者も続出したという。また、慶長の役で最も熾烈をきわめたといわれる蔚山城籠城では、飢餓状態にあった城内に水商人や米商人が現れ、1杯の水を銀15匁、5升の米を判金10枚という途方もない値段で売りつけたという。秀吉の朝鮮侵略は、朝鮮の人々を苦しめたその日本軍にとってもまた地獄絵以外の何物でもなかったのである。