豊臣秀吉の全国統一
1582 山崎の合戦(明智光秀敗死), 1583 賤ケ岳の戦い。大坂城の築城に着手, 1584 小牧・長久手の戦い, 1585 根来・雑賀一揆平定。関白となる。四国平定(長宗我部氏服従), 1586 太政大臣となり豊臣姓を与えられる, 1587 九州平定(島津氏服従), 1588 刀狩令。大坂城ほぼ完成, 1590 小田原攻め(北条氏滅亡)。奥羽平定
豊臣秀吉の全国統一
信長の後を継いで、全国統一を完成したのは豊臣秀吉(1537?〜98)である。尾張の地侍の家に生まれた秀吉は、信長に仕えてしだいに才能を発揮し、信長の有力武将に出世した。秀吉は初め木下藤吉郎秀吉と名乗ったが、信長が室町幕府を滅ぼした1573(天正元)年に羽柴姓に改めた。
1582(天正10)年、秀吉は本能寺の変を知ると対戦中の毛利氏と和睦し、山城の山崎の合戦で明智光秀を討ち、信長の法要を営むなどして信長の後継者争いに名乗りをあげた。翌年には柴田勝家(?〜1583)を近江の賤ケ岳の戦いに破り、ついで勝家にくみした織田信孝(信長の3男1558〜83)をも自刃させて信長の後継者の地位を確立した。また同年、秀吉は水陸交通の要地で寺内町として繁栄していた石山の本願寺の跡に、壮大な大坂城を築き始めた。ついで1584(天正12)年、秀吉は尾張の小牧・長久手の戦いで織田信雄(信長の次男、1558〜1630)・徳川家康(42〜1616)の軍と戦ったが、戦局が膠着したために和睦した。以後、秀吉は東国を軍事的に征服する方針を転換し、朝廷のもつ伝統的な支配権を和極的に利用するようになった。
大坂城
信長の築いた安土城は、琵琶湖にのぞむ安士山上に5層7階の華麓な天守をもち、近世的城郭の初めであった。しかし、信長は早くから大坂の地に目をつけ、石山本願寺に城地として引き渡し方を求めていた。信長の遺志を継いだ秀吉は、1583(天正11)年から3年がかりで大坂城を完成させ、京都の聚楽第(聚楽第破却後は伏見城)につぐ豊臣政権の政庁として用いたが、石垣の長さは3里8町にも及び天守は51層9階、下から3階までは石垣のなかにあり内部は金箔で飾るという豪壮華麗なものであった。ここを訪れたイエズス会の宣教師たちは、秀吉自らの案内を受けて天守まで登ったが、黄金の組立て茶室をはじめ、綺羅充満するみごとさに思わず感嘆の声をあげたという。築城当時、宣教師たちは毎日石を積んだ船約1000艘が大坂に入ってくる有様を眺めたというが、現在残る50畳敷余りの「肥後石」や、38畳敷の「たこ石」などは、築城に費やされたたおびただしいエネルギーを象徴している。もっとも、この城は大坂の役で焼亡し、現在の大坂城の城地は、江戸時代初期に豊臣氏のそれの上に約10mの盛土をして再築されたものの遺構であり、ここに1931(昭和6)年に鉄筋コンクリートの天守が復元された。その後1996〜97(平成8〜9)年の大改修工事によって屋根飾りの金箔も押し直され、また最新の耐震構造を備えた現在の天守に生まれかわったのである。
1585(天正13)年、秀吉はまず小牧・長久手の戦いの際に徳川方に味方した紀州の根来衆と雑賀一揆を滅ぼし、ついで朝廷から関白に任じられ、長宗我部元親(1538〜99)を下して四国を平定すると、翌年には豊臣の姓を与えられた(豊臣賜姓)。関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称し、惣無事(全国の平和)を呼びかけ、互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の決定にまかせることを強制した(惣無事令)。惣無事令は戦国大名の喧嘩両成敗法を全国に及ぼしたものといえるが、これによって大名から百姓にいたるまですべての階層で合戦・私闘が禁じられ、戦国の世も終息に向かったので、この命令のことを豊臣平和令ともいう。
秀吉の全国統一年表
- 1582 山崎の合戦(明智光秀敗死)
- 1583 賤ケ岳の戦い。大坂城の築城に着手
- 1584 小牧・長久手の戦い
- 1585 根来・雑賀一揆平定。関白となる。四国平定(長宗我部氏服従)
- 1586 太政大臣となり豊臣姓を与えられる。惣無事令
- 1587 九州平定(島津氏服従)
- 1588 刀狩令。大坂城ほぼ完成。聚楽第に後陽成天皇行幸。
- 1590 小田原攻め(北条氏滅亡)。奥羽平定(伊達政宗服属)。全国統一が完成
- 1591 関白の地位を甥の豊臣秀次に譲る
惣無事令はその後、秀吉が全国を平定する際の法的な根拠になった。1587(天正15)年にはこの命令にしたがわず九州の大半を勢力下においた島津義久(1533〜1611)を征討し、降伏させた(九州平定)。さらに1590(天正18)年には秀吉の停戦命令を無視して他領に侵攻した小田原の北条氏政(1538〜90)を滅ぼし(小田原攻め)、ついで奥羽仕置のため会津に入った。これによって同じく秀吉の停戦命令を長らく無視し続けていた伊達政宗(1567〜1636)をはじめ、東北地方の諸大名もようやく服属し(奥羽平定)、ここに秀吉の全国統一が完成した。1590年から翌年にかけて秀吉の奥羽仕置に反対して葛西・大崎一揆や九戸政実(?〜1591)の乱が相ついで起きたが、いずれも鎮定された。また小田原北条氏の滅亡に伴い、徳川家康を長年の勢力基盤であった東海地方から北条氏の旧領である関東に転封し、また葛西・大崎一揆鎮定後、伊達政宗を米沢から葛西・大崎氏旧領に転封するなど、領地替えを通じて大名の勢力削減をはかるとともに、武士を在地から切り離して兵農分離を推し進めた。
秀吉は、信長の後継者としての道を歩みながらも、軍事的征服のみに頼らず、強力な軍事カ・経済力を背景に、伝統的支配権を利用して新しい統一国家をつくりあげた。1588(天正16)年、秀吉は京都に新築した聚楽第に後陽成天皇(在位1586〜1611)を迎えて歓待し、その機会に諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた。ついで全国統一を終えた1591(天正19)年、秀吉は関白の地位を甥の豊臣秀次(1568〜95)にゆずるとともに緊楽第を与えたが、その後秀吉に実子豊臣秀頼(1593〜1615)が誕生したことから秀次との関係が悪化し、1595(文禄4)年、謀反を企てたという理由で秀次を処刑した。聚楽第もこのときに破却され、以後、豊臣政権の政庁は秀吉が隠居城として新築した伏見城に移った。
豊臣政権の経済的な基盤は、各地に設けられた約200万石の蔵入地(直轄領)であった。これは江戸都府初期の幕領とほぼ同じ規模であるが、蔵入地からの年貢は秀吉直臣団への扶持米や戦時の兵粮米にあてられたほか、大名に新恩として与える知行地の源泉にもなった。そのほか秀吉は、佐渡相川・石見大森・但馬生野などの主要な鉱山を直轄にして金銀の生産に伴う収益を独占し、京都の彫金家後藤徳乗(50〜1631)に命じて天正大判などの貨幣を鋳造した。さらに京都・大坂・堺・伏見・長崎などの重要都市を直轄にして豪商を統制下におき、政治・軍事などにその経済力を活用した。秀吉のもとで活躍した豪商としては堺の千利休(1522〜91)・小西立佐(行長の父 1533?〜92?)、博多の島井宗室(1539?〜1615)・神屋宗湛(1553〜1635)らが知られている。とくに千利休は秀吉の異父弟である豊臣秀長(1540〜91)とともに秀吉の側近として政治にも深く関与したが、秀長の病死後、政権内部の抗争に巻き込まれ、1591(天正19)年に自刃させられた。
豊臣政権は秀吉の独裁化が著しく、中央政府の組織の整備が十分に行われなかった。腹心の部下である浅野長政(1547〜1611)・増田長盛(1545〜1615)・石田三成(1560〜1600)・前田玄以(1539〜1602)・長束正家(?〜1600)を五奉行として政務を分掌させ、有力大名である徳川家康・前田利家(1538〜99)・毛利輝元(1553〜1625)・小早川隆景(1533〜97)・宇喜多秀家(1572〜1655)・上杉景勝(1555〜1623)を大老(隆景の死後五大老と呼ばれた)として重要政務を合議させる制度ができたのは、秀吉の晩年のことであった。