原内閣と政党政治
原は爵位をもたず藩閥政治家ではない日本で初めて衆議院に議席をおく内閣総理大臣だったので、平民宰相と呼ばれた。原内閣は陸相・海相・外相を除く全閣僚が立憲政友会会員からなる政党内閣で、国民から歓迎され、世論を背景に、教育施設の拡充・交通機関の整備・産業の振興・国防の充実など積極政策を推進した。
原内閣と政党政治
米騒動を収拾した寺内内閣が退陣すると、元老たちももはや官僚内閣では世論の支持を得ることができないと考え、衆議院の第一党である立憲政友会総裁の原敬を後継の首相に推薦し、1918(大正7)年9月、原内閣が成立した。原は爵位をもたず、岩手県の出身でいわゆる藩閥政治家ではなく、日本で初めて衆議院に議席をおく内閣総理大臣だったので、平民宰相と呼ばれた。また原内閣は陸相・海相・外相を除く全閣僚が立憲政友会会員からなる政党内閣だったので、国民から歓迎された。彼は、こうした世論を背景に、優れた指導力を発揮して党内の統制をはかり、教育施設の拡充・交通機関の整備・産業の振興・国防の充実という積極政策を推進した。そして、1919(大正8)年、選挙法を改正して、選挙資格を直接国税10円以上から3円以上にまで広げ、同時に大選挙区制を小選挙区制に改め、翌年の総選挙では立憲政友会は衆議院の圧倒的多数の議席を制し、その勢力は官僚や貴族院 ❶ にも及んだ。
しかし、1920(大正9)年の恐慌によって原内閣の積極政策は行き詰まった。そして、立憲政友会の党勢拡張により、政党間の争いは一段と激しくなり、利権あさりをめぐって汚職事件が発生し、多数党の腐敗と横暴を非難する声も盛んにおこった。また、第一次世界大戦の末期から知識人・学生・労働組合などを中心に、選挙権における納税資格を撤廃し、普通選挙(男性のみ)の実現を要求する運動がしだいに活発になった。議会でも尾崎行雄・犬養毅いぬかいつよし・島田三郎らがこれに応じて政府に迫り、普選実施の主張は野党である憲政会や国民党のスローガンにも取り入れられていった。しかし、原首相と立憲政友会は、すぐに普通選挙を実施するのは時期尚早であるとして反対を唱え、社会運動にも冷淡な態度をとった。このことは、原の「平民宰相」というイメージを損なうことになった。
1921(大正10)年11月、立憲政友会が横暴であると憤慨した一青年によって原首相が東京駅頭で暗殺されたあと、立憲政友会を率いて高橋是清が組閣したが、まもなく閣内不統一で総辞職し、その後は、加藤友三郎(1861〜1923)・山本権兵衛と非政党内閣が続いた。