幕末の文化
開国後の政局や世相が混乱するなかで、幕府は欧米諸国との交流を深め、国内の政治的な立場を強化するとともに、国家的な自立を確保するためにその進んだ文化・学術を取り入れて近代化をはかろうとした。
幕末の文化
開国後の政局や世相が混乱するなかで、幕府は欧米諸国との交流を深め、国内の政治的な立場を強化するとともに、国家的な自立を確保するためにその進んだ文化・学術を取り入れて近代化をはかろうとした。
開国後まもない1855(安政2)年、蛮書和解御用を独立させて洋学所を建て、蕃書調所と改称し、欧米各国の語学や理化学の教育・研究及び外交文書の翻訳にあたらせた。のちに洋書調所、ついで開成所と改称し、医学・軍事などの自然科学に片寄っていた洋学が、哲学、政治・経済の分野にまで発展した。なお開成所は、明治政府のもとで開成学校となり、さらに東京大学となった。また医学の分野では、1860(万延元)年に天然痘の予防接種を行うため民間でつくられた種痘所を幕府の直轄とし、さらに医学所と改称して西洋医学の教育と研究を行った。
またこのころ、幕府は1862(文久2)年には幕臣榎本武揚(1836〜1908)や洋書調所教官の西周(1829〜97)・津田真道(1829〜1903)をオランダに、1866(慶応2)年には中村正直(1832〜91)らをイギリスヘ留学させ、欧米諸国の政治・法制・経済を学ばせた。諸藩でも、長州藩では1863(文久3)年に井上馨(1835〜1915)・伊藤博文(1841〜1909)ら藩士5名をイギリスヘ留学させ、薩摩藩も1865(慶応元)年に五代友厚(1835〜85)・寺島宗則(1832〜93)・森有礼(1847〜89)ら19名をイギリスヘ送るなど、攘夷から開国へと政策転換するにしたがい、留学生などを外国へ派遣している。このような動きのなかで、幕府は日本人の海外渡航の禁止を緩和し、1866(慶応2)年に学術と商業のための渡航を許可した。このほか、横浜には外国人宣教師や新聞記者が来日し、彼らを通して欧米の政治や文化が日本人に紹介された。
通商条約の締結によって来日した宣教師のなかで、アメリカ人宣教師で医者のヘボン( Hepburn, 1815〜1911)は、診療所や英学塾を開き、ヘボン式と呼ばれるロ一マ字の和英辞典をつくるなど、積極的に西洋文化を日本人に伝える者もいた。また、イギリス公使オールコックが日本の美術工芸品を収集して、1862年、ロンドンの世界産業博覧会に出品したり、幕府が1867年のパリ万国博覧会(1867)に葛飾北斎の浮世絵や陶磁器などを出品し、日本文化の国際的評価を高める努力も行われた。このようにして、攘夷の考えがしだいに改められ、むしろ欧米をみならって近代化を進めるべきだという声が強まっていった。