民衆と土地政策
人口増加に対する口分田の不足もあって、政府は積極的に耕作地の拡大をはかったが、結果として有力者による大土地所有が展開することになった(初期荘園)。
- 722(養老6)年:百万町歩の開墾計画
- 723(養老7)年:三世一身の法
- 743(天平15)年:墾田永年私財法
民衆と土地政策
律令政治が展開した8世紀には、基礎的な産業である農業に進歩がみられ、鉄製の農具がいっそう普及した。
農民の生活面では、それまでの竪穴住居にかわって平地式の掘立柱の住居が西日本から次第に普及していった。当時の家族のあり方は今日と違い、結婚ははじめ男が女の家に通うかたちの婚姻(妻問婚)に始まり、夫婦はいずれかの父母のもとで生活し、やがて自らの家をもつことになった。女性は結婚しても氏姓を改めず、また自分自身の財産をもっていた。律令では、中国の家父長制的な家族制度にならって父系の相続を重んじたが、一般農民の家族では、子どもの養育などに母や母系の発言力は強かった。
農民は、国家から与えられた口分田を耕作するほか、口分田以外の公の田(乗田)や寺社・貴族の土地を借りて耕作した。これを賃租といい、原則として1年の間土地を借り、収穫の5分の1を地子として納めた。
しかし、農民には兵役や雑徭などの労役、そして調・庸などの租税やそれら貢進物を都まで運ぶ運脚など厳しい負担がかけられたから、その生活は楽ではなかった。さらに、天候不順や虫害などに影響されやすい当時の農業技術の段階では、容易に飢饉がおこり、共同体的な互助制度や国司・郡司らによる勧農政策があっても、なお不安定な生活を強いられた。
一方で、着実な生産は続けられたが、農民のなかには富裕になる者と貧困化していく者の別が生じた。こうした階層分解は、均質な公民家族から均等に租税を徴収することをめざす律令制の建前を崩すことになる。
困窮した農民のなかには、口分田を捨てて戸籍に登録された本籍地を離れて他国に浮浪したり、都の造営工事の現場から逃亡したりして、律令制の支配下から逃れ、地方豪族などのもとに身を寄せる者も増えた。また有力農民のなかにも、浮浪したり勝手に僧侶となったり(私度僧)、貴族の配下に入るなどして、租税負担を逃れようとする者があった。こうして8世紀後半には、調・庸の納期遅れ、品質の悪化や未進が増え、兵士の弱体化が進むなど、国家の財政・軍事に大きな影響を与えるようになった。
人口増加に対する口分田の不足もあって、政府は積極的に耕作地の拡大をはかり、722(養老6)年には百万町歩の開墾計画を立てた。この政策は、農民に食料・道具を支給し、10日間開墾に従事させて良田を開こうとしたもので、陸奥を対象としたとする説もあるが、いずれにせよ百万町歩という膨大な土地の開墾計画は、机上の空論に終わった。続く723(養老7)年には、三世一身の法が出された。
この法は、新しく灌漑施設を設けて未開の地を開墾した場合は三世(子・孫・曽孫)にわたりその私有を認め、旧来の灌漑施設を利用して開墾した場合は本人一代の間私有を認めるというもので、民間の開墾による耕地の拡大をはかるものであった。しかし、期限が近づくと再び荒廃するなど不十分なこともあって、続く743(天平15)年には、墾田永年私財法が出された。
今度は自ら開墾した田の私有を永久にわたって保障するもので、墾田の面積には一品の親王や一位の貴族で500町、二品の親王や二位の貴族で400町から初位以下庶民の10町にいたるまで、身分による階層的な制限が設けられていた。
のち、765(天平神護元)年に有力者のみを利するとして開墾は一時禁止されたが、772(宝亀3)年には再び開墾とその永代私有が認められた。
墾田永年私財法は、従来耕作されていなかった土地を水田化する開墾行為を政府の管理下におき、田地を増大することによって政府の土地支配を強めるという積極的な意味をもっていた。そして、これに応じて浮浪人など多くの労働力を編成して灌漑施設をつくり、原野を開墾できる力をもった貴族・大寺院や地方豪族たちによる開発が進んだ。既存の耕地は対象外であったものの、結果として有力者による大土地所有が展開することになった。東大寺などの大寺院は、広大な原野を独占し、国司や郡司の協力を得て、付近の農民や浮浪人らを使って大規模な開墾を行った。これを初期荘園といい、現地には経営拠点の荘所や収穫物を納める倉庫群がおかれた。しかし初期荘園は、のちの荘園とは異なって中央や国司・郡司などの行政組織に依存して営まれたものが多く、9世紀以降に律令制的な行政組織が変質するとともに、その大部分が衰退した。