中央アジアのトルコ化
9世紀半ば、キルギスの侵入によりウイグル遊牧帝国が崩壊。帝国を構成していたトルコ系民族は、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと大移動を開始した。
甘州を中心に「甘州ウイグル」天山山脈東部に「天山ウイグル」西方に移動した集団は天山北麓のトルコ系部族カルルクに吸収され、このカルルク部族連合を基盤として、カラハン朝が建国された。
中央アジアのトルコ化
9世紀半ば、天災とシベリア方面からのキルギスの侵入により、ウイグル遊牧帝国が崩壊すると、帝国を構成していたトルコ系民族は、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと大移動を開始した。
彼らのうち甘粛回廊へ落ち着いた集団は、甘州を中心に「甘州ウイグル」と呼ばれる勢力を形成し、天山山脈東部に移った集団は「天山ウイグル」と呼ばれる集団を形成した。さらに西方に移動した集団は天山北麓のトルコ系部族カルルクに吸収され、このカルルク部族連合を基盤として、カラハン朝が建国された。
カラハン朝は西隣のサーマーン朝の影響を受けてイスラームへ改宗し、またサーマーン朝でも軍事・政治の実権はしだいにトルコ系軍人の手に移っていった。
10世紀半ば過ぎ、サーマーン朝のマムルーク出身の武将アルプテギーンがアフガニスタンに自立してガズナ朝の基を築いたのはこうした状況下のことである。やがてガズナ朝とカラハン朝が滅亡すると、中央アジア一帯のトルコ系の波はさらに加速した。
東西に伸びる中央アジアのオアシス地帯がペルシア語で「トルコ人の地」を意味するトルキスタンと呼ばれるようになるのは、こうした事情による。トルキスタンは、一般にパミール高原を境に、西方の西トルキスタンと東方の東トルキスタンに大別される。
こうした中央アジアのトルコ化・イスラーム化という趨勢は、11世紀以降さらに周辺へと拡大し、西方ではトルコ系セルジューク朝の西進(バグダード入城〜小アジア進出)や、同じくホラズム朝による中央アジア〜イラン支配、アフガニスタン以南ではガズナ朝の北インド侵入から、ゴール朝、デリー・スルターン朝(最後のロディー朝のみアフガン系)へと継承されるトルコ系王朝の北インド征服、支配という歴史が展開していったのである。
オアシス都市カシュガルは、カラハン朝の時代に首都となり、トルコ化・イスラーム化が進展した都市として著名である。1075年ころバグダードで作成され、カリフのムクタディーに献上されたと伝えられるこの辞典は、トルコ系の諸語をアラビア語で解説した単なる辞典ではなく、当時のイスラーム文化を多方面的に紹介した著作としてもきわめて重要である。