古都奈良の文化財 薬師寺 白鳳文化
大池からみた薬師寺Source Wikipedia

古都奈良の文化財


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古都奈良の文化財

710年からの74年間、日本の都平城京として栄えた歴史を伝える歴史的遺構が「古都奈良の文化財」である。元明天皇によって唐の長安をモデルに造営された平城京は、道が碁盤の目状に配された計画都市。日本の政治、経済の中枢でり、同時代に花開いた天平文化の中心地でもあった。世界遺産には、東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、唐招提寺、春日大社の6つの寺社と、奈良時代をしのばせる特別史跡の平城宮跡、特別天然記念物の春日山原始林の8資産が登録されている。これらは各資産の個別の価値が認められたのに加えて、8資産全体で奈良時代の歴史と文化を物語っていることも評価された。

古都奈良の文化財

世界遺産としての「古都奈良の文化財」には、東大寺、興福寺、春日大社、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城京跡の8ヵ所が記載された。平城京跡は、初の考古学的遺跡として登録されている。710年のこの地への遷都により、壮大な都市計画のもとにかつてない規模で道路・市街地・宮殿・寺院などが造営され、794年の平安京遷都後も寺社の多くは旧都に残された。春日山原始林は文化的景観としての価値が高く評価された。

参考 UNESCO World Heritage Centre

天平文化を育んだ平城京の面影

710年からの74年間、日本の都平城京として栄えた歴史を伝える歴史的遺構が「古都奈良の文化財」である。元明天皇によって唐(王朝)の長安をモデルに造営された平城京は、道が碁盤の目状に配された計画都市。当時の推定人口は10万人で、日本の政治、経済の中枢であるとともに、同時代に花開いた天平文化の中心地であった。世界遺産には、東大寺、興福寺、元興寺(極楽坊)、薬師寺、唐招提寺、春日大社の6つの寺社と、奈良時代をしのばせる特別史跡の平城宮跡、特別天然記念物の春日山原始林の8資産が登録されている。これらは各資産の個別の価値が認められたのに加えて、8資産全体で奈良時代の歴史と文化を物語っていることも評価された。

奈良に点在する寺社は、天皇家や藤原氏と密接に結びつくものが多い。どれも計画的に配置された木造建築物で、8世紀の文化、芸術、技術の水準の高さを示している。また平城京の中心であった平城宮跡は、当時の都市設計や生活様式を伝える重要な資料とされ、現在も発掘調査や建造物の復旧作業が進められている。こうした資産群からは、日本の文化が中国や朝鮮との交流によって大きく発展していったこと、また奈良時代が今日まで続く日本の律令国家や文化の基礎を形成した、極めて重要な時代であったことを知ることができる。

文化財として世界遺産に登録された春日山原始林は、春日大社の社叢しゃそう(神社の森)として古くから聖域として守られてきた。841年に神域となって以来、1,000年以上にもわたって人の手が加えられていない自然が残されている。自然崇拝に根ざした日本固有の宗教観をあらわす例として、その価値が認められている。

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国際色豊かな古都

710〜784年までの74年間、現在の奈良県奈良市に平城京が置かれた。平城京は唐(王朝)の長安をモデルとし、碁盤の目状に走る道路で整然と区画された。ここを舞台に、唐の影響を受けた国際色豊かな天平文化が花開いた。世界遺産に登録されているのは、平城宮跡や東大寺、春日大社など8資産。奈良時代の木造建築技術が文化・芸術に高い水準にあった点、自然崇拝に基づく日本人の宗教観を示す点、律令体制など日本の社会・政治体制が確立してゆく過程を伝えている点などが評価された。

8世紀前半は不安定な政治情勢が続き、飢饉や疫病も広がった。そこで、聖武天皇は仏教の力によって国家の安定をはかろうとし、743年に盧舎那仏(大仏)建立を命じた。東大寺にはこの盧舎那仏を安置する世界最大級の木造建築である金堂(大仏殿)を始め、聖武天皇ゆかりの品々を納めていた校倉造りの正倉院正倉(宝庫)、南大門、法華堂(三日月堂)などが残る。

失明するなど度重なる失敗を乗り越えて来日した唐(王朝)の高僧である鑑真は、759年に修行の道場として唐招提寺を開き、正式な僧となるための戒律を伝えた。

この時代の仏教は、国家が積極的に保護したことから大いに栄えたが、次第に仏教勢力が政治に関与するようになり、その弊害が目につくようになった。そのため桓武天皇は、仏教勢力と距離を置く意味もあり、784年に長岡京へ遷都すると、そのわずか10年後の794年に平安京へ遷都した。

聖武天皇と詔:聖武天皇は大仏造立の詔で人々の思いの集大成として大仏を建立することを望み、記録では当時の人口の約半数にあたる延べ260万人が協力したとされる。752年の盧舎那仏開眼供養会には約1万人が集まった。
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世界遺産登録資産


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