専制ローマ帝国 (テトラルキア時代)
ディオクレティアヌス(ローマ皇帝)はオリエント的専制支配に傾いていき、彼の時代以後は専制君主政(ドミナートゥス)と呼ばれる。広大な帝国を効率よく統治するために2人の正帝・2人の副帝をおく四分統治世(テトラルキア)を採用し、帝国の行政区分をも再編成した。軍隊を増強し、帝国全土に均一な税制を定め、最高価格令を発して物価騰貴を抑えようとした。また官僚を増やして都市の自治への介入を強めた。ローマ伝統の宗教を統治の主柱としてキリスト教徒に対しては、「大迫害」を命じた。
専制ローマ帝国
ディオクレティアヌス
3世紀の皇帝たちは軍制改革や宗教統一策をとって危機の克服を試みたが、最終的に帝国に安定をもたらしたのはディオクレティアヌス(ローマ皇帝)であった。
彼はユピテル神の体現者として統治し、皇帝の神的権威を強めた。市民は今や皇帝の臣民であり、皇帝の前に出るときは跪拝礼を求められ、元老院の諮問会議も皇帝のまえで起立したままおこなわれた。ディオクレティアヌス帝はこのようにオリエント的専制支配に傾いていき、彼の時代以後は専制君主政(ドミナートゥス)と呼ばれる。彼は広大な帝国を効率よく統治するために2人の正帝・2人の副帝をおく四分統治世(テトラルキア)を採用し、帝国の行政区分をも再編成した。
軍隊を増強し、帝国全土に均一な税制を定め、最高価格令を発して物価騰貴を抑えようとした。また官僚を増やして都市の自治への介入を強めた。ローマ伝統の宗教を統治の主柱としてキリスト教徒に対しては、「大迫害」を命じた。
コンスタンティヌス1世
彼の次のコンスタンティヌス1世のときに分治体制はくずれて独裁となったが、ディオクレティアヌスの政策はそのまま受け継がれた。ただコンスタンティヌスは統治の宗教的基盤にはキリスト教を選び、教会を援助した。
330年に彼は黒海とエーゲ海を結ぶ海峡にあるビザンティオンを新しい首都と定め、これに自分の名を与えてコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)と呼んだ。これは、今では名目上の首都でしかなく、かつ伝統宗教の残るローマを去って、キリスト教的な首都を建設しようとする意図の現れと考えられる。彼のもとでも皇帝の専制化は進み、官僚制が発達し、国民の職業は固定化される傾向におかれた。農業小作人(コロヌス)もこの時代に法律で土地に緊縛された。ローマ帝国は完全な階層的社会となって、かつての市民の自由は失われた。
ユリアヌス、ウァレンス
4世紀後半、帝国はササン朝の侵入をうけ、フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝は東方遠征中に戦死し、また北方と西方には民族大移動(ゲルマン人の大移動)が生じ、ゴート族などの新興ゲルマン人の侵入がさかんで、378年のハドリアノポリスの戦いではウァレンス帝が戦死した。ガリア・スペインにはバガウダエと呼ぶ貧農の反乱が、北アフリカにはキリスト教の異端キルクムケリオーネスの騒乱がおこるなど、帝国の内憂外患は深刻化していった。
コンスタンティノポリスへの遷都は、帝国の中心が東方ギリシア世界に移ったことを意味しており、帝国の東西への分離傾向は強まって行ったが、テオドシウス帝がその死に対してアルカディウスとホノリウスの2子に分割して与えて以後、東西の帝国は2度と統一されなかった。西ローマでは皇帝権が弱体化していき、ゲルマン人傭兵出身の将軍が実権を握ってゲルマン人との侵入と戦うという事態となり、大土地所有者は帝国の支配権を脱して田園で独立していく傾向を強め、都市の衰亡もはなはだしかった。そして476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケル(434頃〜493)によって皇帝が廃位されて、西ローマは滅亡した。
一方、東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を受けることが比較的少なく、アンティオキア、アレクサンドリアなどのギリシア都市がコンスタンティノポリスとともに繁栄を続け、自由農民も存続して専制国家体制がなお1000年余り続いた。