独占体の形成と移民問題
南北戦争に勝利した北部では、国内市場が拡大し急速に工業が発展した。資本主義は高度化して独占段階に入り、アメリカの富豪が誕生した。資本家はハーバート=スペンサーの主張する社会進化論の立場をとり、増大した賃金労働者の労働問題には無理解であった。
独占体の形成と移民問題
戦争に勝利した北部では、国内市場が拡大したこともあって急速な工業の進展がみられ、資本主義は高度化して独占段階に入った。すなわちトラスト Trust の形成が進み、とくにロックフェラー J.D.Rockefeller (1839〜1937)が所有するスタンダード石油会社は全米の精油能力の90%以上を支配し、アメリカ最初のトラストとなった。そのほか金融と産業界を支配したモルガン J.P.Morgan (1837〜1913)財閥などアメリカの富豪が誕生したのもこのころである。
また戦後の急速な工業発展は賃金労働者の数を増大させ、労働者の問題意識を尖鋭化させた。女性・年少労働者の問題、労働組合の結成、労使紛争の拡大、労働法規の制定などが新しい社会問題となった。資本家はロックフェラーやカーネギーのようにハーバート=スペンサーの主張する社会進化論の立場をとり、「神が私に金を与えたもうたのだ」、また「神を信じ勤勉を尊びその報酬として富が与えられ、それによって社会が進化するもの」と考えていたので、労働運動には無理解であった。これに対し労働者は独占体への反発を強め、1884年から86年にかけて「大動乱期」と呼ばれる労働争議が頻発した。急進派のこうした行動に批判的だったのが熟練労働者で、86年ゴンパーズ Gompers (1850〜1924)を指導者としてアメリカ労働総同盟( AFL, American Federation of Labor )を結成し、具体的な政治行動をさけるなど穏健な手段をとりつつ、自らの権利を守った。
19世紀に入ると、ヨーロッパやアメリカで奴隷解放が実現したが、奴隷にかわって労働力を補完したのはインド・中国などのアジア人によるクーリーであった。クーリー制度は年季奉公制・契約労働制などの全体呼称であり、インド人は1830年代モーリシャスに導入されたのをきっかけに、ジャマイカ・フィジー・アフリカなど世界各地のプランテーションや建設用の労働力として利用された。中国人の場合は、東南アジアから合衆国まで送りこまれた。とくに合衆国ではカリフォルニアなどの太平洋岸に居住し、大陸横断鉄道の建設に貢献したことはよく知られている。
アジア人によるクーリー制度とほぼ同時期展開したのが、アイルランド人、東欧・南欧系の住民のアメリカ合衆国への大量移住であった。この現象の背景には、アイルランドの大飢饉、イタリア統一戦争やロシアのクリミア戦争敗北後の東欧や南欧地域での経済混乱による貧困や悲惨な生活があり、将来性のあったアメリカ合衆国へと人間が大量に移動した。ニューヨークのエリス島は移民であふれ、それまでのように西部に移住して自営農民になるものは少なく、そのまま東部の大都市にいすわり、自国民だけで集団を形成し、新聞を発行するなど自分たちの文化や宗教を堅持した。
アメリカ合衆国と移民
アメリカ合衆国と移民
1880年代まで | イギリスやスカンディナヴィアなどの北欧、ドイツ | 西部の自営農民となったり、高い技術をもつ熟練工として、発展途上にあったアメリカ合衆国の産業を支えた | 1848年革命 |
アイルランド | プロテスタントなくカトリック信者なので差別をうける。 英語を理解でき、団結が強く移民が増加 | ジャガイモ飢饉(1845〜49) | |
1880年代以降 | 東欧や南欧 | 非熟練の低層労働者となり、この安価な労働力に支えたれてアメリカ合衆国が世界最大の工業国となる。 | イタリア統一戦争やロシアのクリミア戦争敗北による経済的な変動や政治的不安定 |
中国 | クーリーと呼ばれる年季労働者。白人低層労働者との競合により、排斥運動が展開され、1882年移民法改正により中国系移民は禁止された。 | 北京条約(アロー戦争講和条約)で海外渡航公認 | |
日本 | カリフォルニアなどを中心に排日移民運動が激化 1924年排日移民法 | 1868年明治維新 移民を自由化 |
ヨーロッパにおける人口増加もあって、19世紀にはヨーロッパからアメリカ合衆国への移民が急増した。1880年代までは、主としてイギリスやスカンディナヴィアなどの北欧、ドイツ(1848年革命などもあって増加)などからの移民が流入した。彼らは西部の自営農民となったり、高い技術をもつ熟練工として、発展途上にあったアメリカ合衆国の産業を支えた。一方、この時期にはジャガイモ飢饉(1845〜49)などによりアイルランドからの移民が増加し労働者などになった。アイルランド移民はカトリック信者であり、プロテスタントではないために差別をうけることもあったが、英語を理解できることや団結の強さもあって、移民が増加した。1880年代以降になると、経済的な変動や政治的な不安定さが続く東欧や南欧からの移民(新移民)が増加した。新移民の大半は非熟練の低層労働者となり、その安価な労働力に支えられて、アメリカ合衆国は世界最大の工業国となった。
これとともに1860年の北京条約(アロー戦争講和条約)で、中国人の海外渡航の自由が承認されたこともあって、中国系移民(苦力と呼ばれる年季労働者)が増加し、のちに日系移民なども増えた。中国系の年季労働者はアイルランド系移民とともに大陸横断鉄道(1869年完成)の建設にも貢献したが、白人低層労働者と競合したため、排斥運動が展開され、1882年の移民法改正によって中国系移民は禁止された。
20世紀になると、WASP以外、あるいは技術をもたない移民を制限すべきとの声から、1917年には識字テスト法が成立したほか、カリフォルニアなどを中心に排日移民運動が激化し、1924年には排日移民法が定められた。