「われら失いし世界」
人々の生活は、家族を単位として成りたっていたので、社会的には家族の長である戸主がすべてを代表していた。これらの家族と家族の間の関係も、支配階級をなす保護者的な家系(イギリスでは「ジェントルマン」と呼ばれた)とその保護と支配をうける多くの家族とによって、縦の関係が形成されていた。中央の政治は、ほとんどこうしたジェントルマン階級が独占していた。
「われら失いし世界」
18世紀末から産業革命が進行して、イギリスをはじめ西ヨーロッパの社会が大きく変わる以前(一般に「近代初期の社会」とか「前工業化社会」といい、フランス史では「アンシャン=レジーム」と呼ぶ)には、ヨーロッパ全体をとっても、イギリスでも、住民の大半は農村的な環境のなかで暮らしていた。17世紀末のイギリスでいえば、ロンドンという世界有数の大都市があって、ロンドンの住民だけで総人口の10分の1を占めていたが、それでもなお総人口の4分の3は農村で暮らしていた。ロンドン以外の都市は、人口にしてせいぜい1万人前後までというごく小規模なものが大半だったからである。
都市でも農村でも、人々の生活は教区を基本的な単位として成立していた。すなわち、日曜の礼拝には住民の多くが教区の教会に集まり、救貧のような重要な地方の行政も、教区の役人が中心となっておこなわれていた。
農村では穀物の栽培が重要ではあったが、それと複雑にからみあって、牧畜や家内工業が展開していた。農民といえども、農業だけによって生計をたてていた人はめったにいない。とくに17世紀後半から、イギリスの東部で新しい農法(ノーフォーク農法と呼ばれ、冬季の家畜飼料としてカブを栽培する)が採用され、穀物栽培の効率があがったので、西部や北部では、やむなく牧畜と製造工業に集中していく傾向がみられた。毛織物工業など、繊維産業を中心にしたこれらの製造業は、商人が原料を供給し、これを農民兼職人が家族ぐるみで加工し、商人から手間賃をえる制度(前貸し問屋制と呼ぶ)によっておこなわれた。
人々の生活は、家族を単位として成りたっていたので、社会的には家族の長である戸主がすべてを代表していた。これらの家族と家族の間の関係も、親子の関係に似ており、支配階級をなす保護者的な家系(イギリスでは「ジェントルマン」と呼ばれた)とその保護と支配をうける多くの家族とによって、縦の関係が形成されていた。中央の政治は、ほとんどこうしたジェントルマン階級が独占していたのである。
17世紀から、農業技術改良の試みが始まった。4輪で種子と肥料を一緒にまくことができる。人間でもひけるほど軽いが、一般的には、小馬にひかせる。。初期の改良を結びつけ、1745年に発明された。
イギリスの家族
当時のイギリスの庶民は、一般に14、15歳になると家族のもとを離れ、奉公人として別の家族に入った。奉公人は、都市では徒弟や家事使用人であったが、圧倒的多数は、農家に農業奉公人として入ったものである。17世紀までの「家族」という言葉には、こうした各種の使用人が含まれている。いずれにせよ、10年近くを奉公人として過ごしたのちに、彼らは独立して結婚し、新しい世帯を構成した。当時のイギリスや北フランスでは、こうして単婚核家族と晩婚が普通となっていた。