エリザベス1世と植民地帝国への端緒
イギリスは、スペインの無敵艦隊を破って海外進出の端緒を開き、ヨーロッパでスペインの覇権が衰え、北西ヨーロッパのオランダ、フランス、イギリスの3国が勢力争いをする時代に入っていくひとつのきっかけとなった。北アメリカ植民は失敗したが、アイルランドに植民を展開した。イギリス東インド会社を設立しアジアと直接貿易を始めたが、まだオランダには対抗できなかった。
エリザベス1世と植民地帝国への端緒
ヘンリー8世の没後「少年王」エドワード6世(イングランド王)(位1547〜1553)とメアリー1世(イングランド女王)(位1553〜1558)の短い治世の間、イギリスは宗教的にも政治的にも混乱に陥った。しかし、16世紀後半になると、エリザベス1世(イングランド女王)(位1558〜1603)のもとでその絶対王政は頂点を迎える。女王は、統一法によってイギリス国教会制度を確立し( イギリス国教会の成立)、トーマス・グレシャム(1519〜1579)を登用して貨幣を改鋳し、通貨を安定させた。
しかし、この通貨の改善によって、ポンドが大陸諸国の通貨に対して強くなり(ポンド高)、イギリスの毛織物は大陸で割高となった。そのうえイギリスは、ネーデルラントを支配しているスペインと対立したことなどが原因となって、アントウェルペン市が閉鎖され、毛織物の輸出が伸びなくなった。しかもこの時期には、人口も激増したため失業者も増えた。1601年に、全国的な救貧法が制定されたのもこのような事情からである。
他方、文化面ではこの時代はイギリス・ルネサンスの最盛期となり、劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564〜1616)などが活躍する華やかな時代となった。対外的には、プロテスタントとしてオランダの独立を支援し、1588年には暴風雨にも助けられて、スペインの無敵艦隊を破って(アルマダの海戦)海外進出の端緒を開いた( スペイン絶対王政の確立)。この戦争は、ヨーロッパでスペインの覇権が衰え、北西ヨーロッパのオランダ、フランス、イギリスの3国が勢力争いをする時代に入っていくひとつのきっかけとなった。
スペインの封鎖政策によって、アントウェルペンが崩壊したため、そこからアジアの商品が買えなくなったイギリスは、東地中海(レヴァント地方)との貿易をおこなう会社をつくった。1600年にはオランダに対抗して東インド会社が認可され、アジアとの直接貿易も始まった。もっとも17世紀前半では、資金力などの点で、イギリス東インド会社はオランダのそれに対抗できず、「アンボイナ事件」もあって、香料産地のインドネシアには入っていけなかった。
略年表
ヨーロッパ主権国家体制の展開
1562 | ユグノー戦争(〜98) |
1571 | レパントの海戦 |
1572 | サン・バルテルミの虐殺 |
1580 | スペイン、ポルトガルを併合 |
1581 | オランダ独立宣言 |
1588 | イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦) |
1589 | フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝 |
1598 | フランス、ナントの王令、ユグノー戦争終結 |
1603 | イギリス、シュチュアート朝(〜1714) |
1607 | イギリス、ヴァージニア植民地設立 |
1613 | ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917) |
1618 | ドイツ三十年戦争(〜48) |
1620 | メイフラワー号、プリマス着 |
1628 | イギリス、権利の請願 |
1640 | イギリス、ピューリタン革命開始(〜49) |
1643 | フランス、ルイ14世即位(〜1715) |
1648 | ウェストファリア条約 |
1649 | イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60) |
1651 | イギリス、航海法 |
1652 | イギリス・オランダ戦争(〜74) |
1653 | イギリス、クロムウェル、護国卿となる |
1660 | イギリス、王政復古 |
1682 | ロシア、ピョートル1世即位(〜1725) |
1688 | イギリス、名誉革命 |