カージャール朝とアフガニスタン
19世紀以降は帝政ロシアが南下政策をとり1810年にグルジアを併合。カージャール朝はこれを奪回しようと遠征軍を送ったが敗北しゴレスターン条約によって北アゼルバイジャンを譲った。1826年再度ロシアと戦ったが敗れ、トルコマンチャーイ条約によってアルメニアを失い、治外法権と市場の開放を認めた。東方ではアフガニスタンをめぐってイギリスと衝突し、1841年の講和でロシアと同様の不平等条約を結ばされた。
カージャール朝とアフガニスタン
サファヴィー朝崩壊(1722 サファヴィー朝国家)後のイランでは、1736年にトルコ系アフシャール族のナーディル=シャー Nadir Shah (位1736〜47)がアフシャール朝 Afshar (1736〜96)を開き、アフガニスタンからインドに遠征し、デリーで大略奪をおこなった。1751年には、カリーム=ハーン Karim Khan (位1751〜79)によってファールス地方を中心にザンド朝 Zand (1751〜94)が樹立され、65年までにイランの主要部を統一し、イギリス東インド会社がペルシア湾に商館を開設することを認めた。
トルコマン系カージャール族のアーガー=モハンマド Aga Mohammad (位1796〜97)は、1785年にザンド朝軍を破り、86年にテヘランを都に定め、地方勢力の平定を進め、96年に戴冠した。カージャール朝 Qajar (1796〜1925)は、一族の者を地方の知事として任命し、配下の軍人にはトゥユール tuyul ❶ と呼ばれる分与地を与え、遊牧民の伝統である分封制をとった。アフシャール朝もカージャール朝も、サファヴィー朝軍隊の中核を握ったキジルバシュ出身であり、遊牧君主の統治という点で共通点をもっていた。
19世紀以降は帝政ロシアが南下政策をとり、カフカスや中央アジアへの領土拡大をねらっていた。1810年にまずグルジアを併合し、カージャール朝はこれを奪回しようと遠征軍を送ったが敗北し(第1次イラン=ロシア戦争)、ゴレスターン条約 Golestan (1813)によって北アゼルバイジャンを譲った。1826年に再度カフカスに遠征しロシアと戦ったが、これに敗れ(第2次イラン=ロシア戦争)、トルコマンチャーイ条約 Torkomanchay (1828)によってアルメニアを失い、さらに治外法権と市場の開放を認めた。東方ではアフガニスタンをめぐってイギリスと衝突し、1841年の講和でロシアと同様の不平等条約を結ばされ、56年にはヘラートを攻撃したが、イギリスに阻まれた。
カージャール朝は、対外戦争の敗北により財政が破綻し、農地は部族長や商人などの世襲地主の手におち、農民は小作化し、あるいは都市に流入した。また対露対英貿易の開始とともに、イランは綿布を輸入し都市の手織綿布産業は衰退を余儀なくされ、経済危機が進行した。このような状況で、イラン民衆や宗教学者の間には、マフディー mahdi (救世主)の再臨を望む声が強まり、1844年青年サイイド=アリー=モハンマド Sayyid Ali Mohammad (1820〜50)はみずからを「バーブ」 bab (神の真理にいたる「門」を意味する)と宣言し、社会改革を訴えると、農民や中小商人の間に帰依者が拡大した。政府はこれを弾圧したが、48年にバーブ教徒は政府と武力対決を決意し、各地で戦闘したが、いずれも虐殺された。50年にハーブは公開処刑された(バーブ教徒の反乱)。
1848年に宰相に就任したアミール=カビール Amir Kabir (1807頃〜52)は、軍事・行政・教育の各方面における近代化改革を始めたが、52年に暗殺され失敗に終わった。以後、カージャール朝は、交通・通信・金融などの各種利権を外国人に切り売りすることによって財政を維持した。1872年には英人ロイターに鉄道・鉱山・銀行・税関などの莫大な利権が譲渡されたが、内外の反対により撤回し、1901年にはイギリスのダーシー William Knox D’Arcy に石油利権が譲渡された。
1890年にタバコの専売利権をイギリス人に譲ることが契約されると、国内のタバコ商人やバザール商人の間に不満が広まった。アフガーニーは、王朝の利権譲渡がイランの民族的危機を招くことを指摘し、専制とイギリス支配への抵抗を呼びかけた。十二イマーム派の最高指導者 ❷ は、各地の宗教指導者やアフガーニーの呼びかけに応え、91年12月にタバコ喫煙の禁忌令を発し、イラン人はいっせいに喫煙をやめ、抵抗を示した。タバコ=ボイコット運動の広がりをまえに、92年1月政府は利権を廃止した。この運動によってイラン人の民族意識は高揚し、宗教指導者をリーダーとする改革運動が勢いを増していった。
アフガニスタンでは、アフシャール朝のナーディル=シャーの撤退後、これに仕えていたアフガン族ドゥッラーニー部族 Durrani のアフマド=シャー Ahmad Shah (位1747〜72)が推挙されて、国王となった(ドゥッラーニー朝)。ロシアの南下とイランの進出を恐れるイギリスは、1838〜42年と1878〜80年の2度にわたりアフガニスタンに侵攻し、戦火を交えた(アフガン戦争)。いずれもアフガン諸部族民のゲリラ戦に敗れたため、イギリスは外交権を抑えアフタにスタンを緩衝国とする戦略に転じた。1893年には、イギリスの仲介によってインドとの国境線(デュアランド=ライン)が画定し、1907年の英露協商によってロシアおよびイギリスの不干渉が合意された。1919年にはアフガニスタンがインドを攻撃し、イギリスと交戦したが、停戦後アフガニスタンの独立が国際的に承認された。
西アジアの動向 イラン・アフガニスタン
イラン・アフガニスタン | |
1722 | ロシア軍、イランに侵入 |
1736 | サファヴィー朝滅亡、アフシャール朝成立 |
1739 | アフシャール朝のナーディル=シャー、デリー占領(〜40) |
1747 | アフガン王国独立 |
1750 | イランにザンド朝成立(〜94) |
1794 | カージャールのアーガー=ムハンマド、ザンド朝を滅ぼす |
1796 | アフシャール朝滅亡、カージャール朝成立 |
1804 | 第1次イラン=ロシア戦争(カージャール朝敗北) 1813年ゴレスターン条約条約(ロシアに北アゼルバイジャンを譲る) |
1826 | 第2次イラン=ロシア戦争(カージャール朝敗北) 1828年トルコマンチャーイ条約(ロシアに治外法権を認め、東アルメニア割譲) |
1838 | 第1次アフガン戦争、イギリスの侵略失敗(〜42) |
1848 | バーブ教徒の反乱(〜52) |
1857 | イギリス=イラン戦争終結(56〜) |
1869 | アフガーニ、カイロに移住、活動再開 |
1878 | 第2次アフガン戦争(〜80) → イギリス軍、カブール占拠 |
1891 | イラン、タバコ=ボイコット運動 |