スペイン帝国の成り立ち
トルデシリャス条約で、中南米のほとんどの領有を認められたスペインは、現地に植民市を建設し、エンコミエンダ制度で先住民(インディオ)を事実上奴隷化した。ヨーロッパからきた伝染病と厳しい租税や労役のため先住民が激減したため、1517年カルロス1世は、年間4000人の黒人奴隷を供給する権利(アシエント)を植民者に与え、奴隷制度への道が本格的に開かれた。スペイン王室は銀生産で膨大な利益を独占したが、その大半をネーデルラントなどでの軍事活動に浪費した。
スペイン帝国の成り立ち
トルデシリャス条約で、中南米のほとんどの領有を認められたスペインは、現地に植民市を建設し、それを拠点として植民を進めた。スペイン王室は当初、レパルティミエントと呼ぶ割り当て制度によって土地と先住民をスペイン人の経営者に分割する方式をとったが、先住民が厳しい労働や生活環境の変化、伝染病などのため、これに耐えられず死滅していき、人口が激減した。このため、これにかわる制度として、エンコミエンダを採用した。
スペイン人植民者に対して、それぞれの地域の先住民をキリスト教に改宗させ「保護する」ことを口実に、彼らに租税を課し、労役をさせる権利を認めたのが、この制度である。この権利を与えられた植民者は、エンコメンデーロと呼ばれた。
彼らは先住民を事実上奴隷化したため、ドミニコ会の修道士ラス・カサスがこれに激しく抗議し、王室もエンコミエンダの縮小をはかろうとするが、植民者の抵抗にあって果たせず、この制度がスペイン領アメリカの基本的な社会・経済制度として定着した。
先住民(インディオ)の保護者として知られるラス・カサス自身、彼らの絶滅を防ぐために、早くからアフリカからの黒人奴隷の導入を提唱していた。エンコミエンダ制度のもとでも、ヨーロッパからきた伝染病と厳しい租税や労役のため、先住民はなおも激減しつづけたので、1517年カルロス1世(カール5世(神聖ローマ皇帝))が、年間4000人の黒人奴隷を供給する権利(アシエント)を与え、奴隷制度への道が本格的に開かれた。こうした労働力は、銀のほかのトウモロコシや家畜といった食料などの生産に使役された。
銀生産の中心となったペルーとメキシコにそれぞれ副王をおき、植民地の支配を強化したスペイン王室は、アメリカとの貿易をカスティリャの町セビリャに独占させ、その利益の大半を手に入れた。しかし、その大半をネーデルラントなどでの軍事活動に浪費した。
略年表
ヨーロッパ主権国家体制の展開
1562 | ユグノー戦争(〜98) |
1571 | レパントの海戦 |
1572 | サン・バルテルミの虐殺 |
1580 | スペイン、ポルトガルを併合 |
1581 | オランダ独立宣言 |
1588 | イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦) |
1589 | フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝 |
1598 | フランス、ナントの王令、ユグノー戦争終結 |
1603 | イギリス、シュチュアート朝(〜1714) |
1607 | イギリス、ヴァージニア植民地設立 |
1613 | ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917) |
1618 | ドイツ三十年戦争(〜48) |
1620 | メイフラワー号、プリマス着 |
1628 | イギリス、権利の請願 |
1640 | イギリス、ピューリタン革命開始(〜49) |
1643 | フランス、ルイ14世即位(〜1715) |
1648 | ウェストファリア条約 |
1649 | イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60) |
1651 | イギリス、航海法 |
1652 | イギリス・オランダ戦争(〜74) |
1653 | イギリス、クロムウェル、護国卿となる |
1660 | イギリス、王政復古 |
1682 | ロシア、ピョートル1世即位(〜1725) |
1688 | イギリス、名誉革命 |