唐の混乱
則天武后は太宗の後宮から高宗(唐)の皇后となり高宗が没すると実子の中宗・睿宗を廃し、自ら「中国史上唯一の女帝」となり国号を周とした。武后の死後復位した中宗の皇后韋后も中宗を毒殺して子を擁立しようとしたが倒された。この政治混乱の時代を「武韋の禍」と呼ぶ。
唐の混乱
7世紀末になると、唐は内部から動揺しはじめた。則天武后(位690〜705)は、太宗(唐)の後宮から高宗(唐)の皇后となり、高宗の晩年にはかわって政務を執り行うようになった。武后は、高宗(唐)が没すると、すでに即位していた実子の中宗(唐)を廃し、かわった睿宗(唐)をも退位させてみずから帝位につき、国号も唐にかえて周と称した(武周革命)。
こうして中国史上唯一の女帝となった武后について、古来中国では、儒教的な女性観も手伝って、悪逆非道の君主のようにいわれてきた。たしかに武后は、酷吏と呼ばれる秘密警察官僚を駆使し、陰惨な恐怖政治をしいて反対勢力を弾圧したが、これによって勢力ある功臣や有力な貴族官僚(とくに関隴系門閥)が除去され、一方で科挙を重視して才能ある者を積極的に登用したので、中央集権が推進され、むしろ皇帝権力の基盤が強化されたという一面がある。
また仏教を統治に利用し、州ごとに大雲寺を設置したが、これは日本の国分寺制度の範となった。
則天武后の死後、唐は再興され、中宗(唐)が復位したが、中宗の皇后である韋后は、則天武后をまねて政治の実権を握ろうとし、中宗を毒殺してその子を擁立しようとした。しかし睿宗(唐)の皇子李隆基(のちの玄宗)がクーデターによって韋后を倒し、ようやく政治混乱に終止符を打った。
この則天武后から韋后にかけての政治混乱の時代を「武韋の禍」とも呼ぶ。
則天武后が主役の作品
武則天-The Empress
- 武則天-The Empress 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ