インド民族運動の展開 インド民族運動の展開 ガンディーと不服従運動
インドの民族運動の展開図 ©世界の歴史まっぷ

インド民族運動の展開 第二次世界大戦末期、インドは分離独立を主張するムスリム連盟とそれに反対する会議派の対立が激化しヒンドゥー教徒とムスリムとの衝突が頻発。新総督マウントバッテンは分離独立の裁定を下し、インド亜大陸にインド連邦とパキスタン自治領誕生

インド民族運動の展開

ガンディーと不服従運動
インドの民族運動の展開図 ©世界の歴史まっぷ
国民会議派は、外部からたび重なる弾圧をうけ、内部においては主義をことにする各派の対立に悩みながらも、民族運動の指導集団としての地位を失わなかった。1927年におこったサイモン委員会問題は、停滞していた民族運動を再び高揚させるきっかけとなった。インド統治法改正のための調査を目的として任命された委員会(サイモン委員長)に、インド人がひとりも加えられていなかったことが、彼らを憤慨させたのである。会議派はただちに抗議行動にでて、左派のジャワハルラール=ネルー Jawaharlal Nehru (1889〜1964)を議長とする1929年のラホール大会でプールナ=スワラージ purna-swaraj (完全な自治)を決議し、1930年から再びガンディーの指導下に非暴力不服従運動を展開した(〜1934)。これに対しイギリスは、各界を代表するインド人をロンドンに集め、1930年から32年にかけて前後3回にわたり、新インド統治法制定にむけて円卓会議を開催した。国民会議派は第1回と第3回の会議をボイコットしたが、第2回の会議には入獄中のガンディーが不服従運動を中断して出席している。しかし成果はえられず、帰国後に運動は再開され、ガンディーは再び獄中の人となった。 1935年に新しいインド統治法が制定された。この統治法は、藩王国とイギリス領11州とでインド連邦を形成させ、11州に全面的な自治制(州議会とそれに対して責任を負う州内閣を中心とする)を採用することを定めたものである。ただし、軍事・外交など主要部分はイギリスに握られており、完全な自治からははるかに遠かった。なお、同法によってミャンマーはインド連邦から切り離された。 イギリスはこのように、インドの民族運動に対して弾圧と妥協をたくみに使い分けながら対処したのであるが、一方ではヒンドゥー教徒とムスリムの対立感情を利用するという従来の分割統治策も可能な限り採用している。ムスリム連盟は第一次世界大戦中から戦後にかけて、トルコのカリフを擁護する目的もあって国民会議派と提携したが、1922年のトルコ革命と24年のカリフ制廃止によって目標を失った。その後、1924年に総裁になったジンナー Jinnah (1876〜1948)の指導下に、ムスリム大衆への浸透をはかってしだいに勢力を拡大し、対英協力・反ヒンドゥーの立場を強めて、1930年代前半の非暴力不服従運動への協力もこばんだ。 新インド統治法のもとでの第1回州議会選挙が1937年に実施された。この選挙では国民会議派が多くの州で勝ち、州内閣を組織した。州自治制がこうして第一歩を踏みだした直後に、第二次世界大戦が勃発し、インドは再び混乱の渦に巻き込まれることになった。 1939年9月、イギリスのドイツに対する宣戦布告とともに、インドは第二次世界大戦に参戦させられた。国民会議派は独立のための好機到来とみて、イギリスに独立を与えるよう迫ったが、総督の声明は要求から遠く離れたものであったため、州内閣の閣僚総辞職という手段に訴えた。よく40年にはガンディー指導下の不服従運動が、また42年には即時独立を要求した「クイット=インディア(インドを出て行け)」の運動が開始されている。これに対してイギリスは大弾圧をもって臨み、会議派は非合法とされ、指導者のほとんどが逮捕・投獄された。会議派がこうして力を消耗させたのに対し、ジンナーの率いるムスリム連盟は急速に勢力を拡大させた。彼らは、ムスリムの団結を呼びかけ、1940年の連盟ラホール大会でムスリムの清浄な国家「パキスタン Pakistan 」の建設を決議するにいたった。 第二次世界大戦が終わるころ、イギリスは植民地インドを維持する力を失っていた。またイギリスの総選挙でインドの独立に好意的であった労働党が勝ち、宿願の達成は目前に迫った。しかし、この時期にインド国内では、分離独立を主張するムスリム連盟とそれに反対する会議派の対立が激化し、また各地でヒンドゥー教徒とムスリムとの衝突が頻発した。こうしたなか、1947年3月にマウントバッテン Mountbatten (1900〜79)が新総督として着任し、6月に分離独立の裁定を下した。ここにいたり会議派も裁定を認め、8月15日、インド亜大陸にインド連邦パキスタン自治領が誕生した
セイロン(1972年からスリランカ)は1948年にイギリス連邦内の自治国として独立した。

ボースとインド国民軍

国民会議派の指導者のひとりチャンドラ=ボース Chandra Bose (1897〜1945)は、第二次世界大戦期に陸路ドイツに亡命し、ナチス=ドイツの協力をえてインドを解放しようとしたが失敗した。のち潜水艦で日本にいたり、日本軍の協力のもとに1943年10月にシンガポールで自由インド仮政府を組織しその首班となった。ボースを最高指揮官とするインド国民軍は、日本軍とともにビルマ経由でインドに入ろうとして失敗(インパール作戦)、ボースは終戦直後に台湾で飛行機事故死した。目的は達成されなかったが、ボースは今日のインドで民族運動の英雄のひとりとして敬愛されている。