スペインとポルトガル 8世紀から300年ほど、イベリア半島は大半がイスラームの支配を受けていたが、キリスト教徒らはレコンキスタを展開し、1479年スペイン王国が誕生、1492年レコンキスタは完了した。同時にコロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていく。ポルトガル王国も13世紀半ばまでにレコンキスタを完了し、絶対王政化を推し進め、西アフリカ沿岸の探検・航海を推進した。1488年バルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達、ポルトガル海洋帝国への道が大きく開かれた。
スペインとポルトガル
だが、その陰で北部のキリスト教徒らは国土回復運動(レコンキスタ)を展開し、すでに718年にはペラーヨ王(位718〜737)によるアストゥリアス王国が成立した。この王国はその後南に勢力を拡大、10世紀初頭にはレオンに都して、イベリアの中央部にも進出していった(レオン・アストゥリアス王国)。
レコンキスタの前進基地には多数の城塞を築いたところから、カスティリャ(ラテン語で城の意)と呼ばれ、10世紀にはカスティリャ王国が成立、まもなくそのフェルナンド1世(カスティーリャ王)はレオン王国を併合した。
他方ピレネー山脈地方でも、9世紀にナバラ王国が成立、サンチョ大王(サンチョ3世(ナバラ王))(位1000〜1035)のもとでバルセロナまで征服し、その子ラミロ1世(アラゴン王)によりアラゴン王国が建設された(1035)。このカスティリャとアラゴンという新興両王国を中心に、その後のレコンキスタは展開された。
メスタ
1273年、アルフォンソ10世(カスティーリャ王)により認められた全牧羊業者組合で、19世紀前半まで存続した。レコンキスタの進展により、イベリア半島を南北に長距離移動する牧羊業がさかんとなった。それにともない、移動路や飼養地、迷羊の処理などをめぐって、地主・農民との衝突が生じた。国王は、輸出用羊毛生産を促進するため、これを保護する政策をとり、農村は疲弊した。ポルトガル王国は1143年、ローマ教皇の仲介でカスティリャ王国から分離独立する(アフォンソ1世(ポルトガル王))(位1139〜1185)と、13世紀半ばまでにレコンキスタを完了した。首都リスボンは、地中海と北海を結ぶ中継地として栄え、やがてカスティリャ王国の海港都市セビリャとその地位を争った。
アヴィス朝(1385〜1580)の時代に絶対王政化が進められ、積極的な海外進出が行われた。初代国王ジョアン1世(ポルトガル王)(位1385〜1433)の子エンリケ航海王子(1394〜1460)は、1415年モロッコの商業都市セウタ攻略を皮切りに、カナリアス・マデイラ・アゾレスなどの大西洋諸島と、ブランコ岬・ヴェルデ岬などの西アフリカ沿岸の探検・航海を推進した。
それは、国内の貴族勢力を弾圧して絶対王政の確立に努めたジョアン2世(ポルトガル王)により継承された。王はスーダンの金取引に成功すると、さらにアフリカ南下政策を推進し、インド航路開拓の計画を具体化した。その結果、1488年バルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達、ポルトガル海洋帝国への道が大きく開かれた。
エンリケ航海王子
