ロシアの台頭
- 16世紀:イヴァン4世(雷帝)恐怖政治・農奴制強化。
- 17世紀:ミハイル・ロマノフ:オホーツク建設、ピョートル1世(大帝)北方戦争
- 18世紀:女帝エカチェリーナ2世:第1次ロシア=トルコ戦争・ポーランド分割
ロシアの台頭
ロシアに統一国家が成立するのは、15世紀末のことである。「タタールの軛」すなわちキプチャク・ハン国の支配から脱したモスクワ大公国のイヴァン3世(位1462〜1505)は、諸公国を征服して統一を達成した。東ローマ皇帝の後継者として「ツァーリ(皇帝)」を自称した彼は、ギリシア正教会の権威をも背景として、その専制支配を強固なものにした( 東スラヴ人の動向)。
イヴァン3世の孫にあたるイヴァン4世(位1533〜1584)は、ギリシア正教会の首長を兼ね、専制政治を強化したため、人々から「雷帝」と呼ばれて恐れられていた(イヴァン雷帝)。大貴族層にはとくに厳しく、晩年、オプリチニナと呼ばれた特殊な恐怖政治をしていて、彼らを抹殺した。他方、彼のもとで土地を手に入れた貴族より下の戦士層は、彼を支持した。彼らに支えられて、イヴァン4世は地方行政や軍制の改革をおこない、全国的な身分制議会を創設するなど、中央集権化に努め、絶対君主となった。
ステンカ・ラージンの反乱
ドン・コサックの指導者(アタマン)であったラージンは、逃亡農民などからなる下層のコサックを率いて、1667年、反乱を開始。政府や商人の船を襲い、奴隷を解放した。カスピ海沿岸のアストラハンを占領したのち、モスクワをめざしてヴォルガ川を北上した。反乱軍には、重税に苦しめられていた農民や少数民族が加わり、大農民戦争となったが、結局、ツァーリの軍隊に敗れ、ラージンは処刑された。しかし、彼の名は英雄として民衆の間に長く伝えられた。
17世紀末に即位したピョートル1世(ピョートル大帝 位1682〜1725)は、武器の製造技術、造船技術など西欧の科学や技術を熱心に導入し、内政改革、とくに軍備の強化、税制の改革、産業の振興に努めた。
ピョートル大帝は、身分を隠してみずからイギリスやオランダを訪れ、風俗や大鳳の製造、造船などの技術を学び、帰国後は、貴族に西欧風の生活様式を強制した。ユリウス暦を採用したほか、学校・新聞・海軍士官学校などを創設し、西欧社会に追いつこうとした。
他方では、農奴制をいっそう強固にしたので、皇帝権はますます強化された。対外的には、オスマン帝国に対抗する同盟関係を推進し、シベリア経営をさらに進め、1689年には清朝とネルチンスク条約を結んで、黒竜江の北の外興安嶺とアルグン川を結ぶ線に国境を画定し、通商を拡大した。

ロシアの近代化を進めたこのツァーリも、幼年期は異母姉のソフィアの陰謀に苦しめられ、最初の妻エウドキアとは対立して息子のアレクセイを死に追いやるなど、家庭的には不幸であった。
プガチョフの乱
貧しいドン・コサック出身のプガチョフは、七年戦争やロシア=トルコ戦争に従軍したが、逃亡をくりかえし、殺害されたピョートル3世を自称して、ヴォルガ流域の貧しいコサックや農民などを率いて大反乱をおこした。この反乱は、政府と貴族に大きな衝撃となったものの、結局、鎮圧され、プガチョフは処刑された。略年表
ヨーロッパ主権国家体制の展開
1562 | ユグノー戦争(〜98) |
1571 | レパントの海戦 |
1572 | サン・バルテルミの虐殺 |
1580 | スペイン、ポルトガルを併合 |
1581 | オランダ独立宣言 |
1588 | イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦) |
1589 | フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝 |
1598 | フランス、ナントの王令、ユグノー戦争終結 |
1603 | イギリス、シュチュアート朝(〜1714) |
1607 | イギリス、ヴァージニア植民地設立 |
1613 | ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917) |
1618 | ドイツ三十年戦争(〜48) |
1620 | メイフラワー号、プリマス着 |
1628 | イギリス、権利の請願 |
1640 | イギリス、ピューリタン革命開始(〜49) |
1643 | フランス、ルイ14世即位(〜1715) |
1648 | ウェストファリア条約 |
1649 | イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60) |
1651 | イギリス、航海法 |
1652 | イギリス・オランダ戦争(〜74) |
1653 | イギリス、クロムウェル、護国卿となる |
1660 | イギリス、王政復古 |
1682 | ロシア、ピョートル1世即位(〜1725) |
1688 | イギリス、名誉革命 |