中期ビザンツ帝国 (8世紀初め〜11世紀)
- イサウリア朝(717〜802):1世紀におよぶローマ教会との対立の間に教会はフランク王国に接近、カールの西ローマ皇帝戴冠によってビザンツ皇帝から事実上自立した。
- マケドニア朝(867〜1057):ブルガリア帝国を滅ぼし版図を広げたが、内紛とセルジューク朝、ノルマン人の侵攻が激化して後退、キリスト教世界もローマ・カトリック教会とギリシア正教会とに分裂した。
中期ビザンツ帝国
まず、イサウリア朝(シリア朝)(717〜802)の開祖レオン3世とその子コンスタンティノス5世は、小アジア地方に侵入するアラブ・イスラーム勢力を一掃し、以後の戦いを国境での局地戦に限定することに成功した。また両帝は、聖像崇拝を厳禁する宗教政策(イコノクラスム)をとって聖像崇拝派の修道院を弾圧した。

バシレイオス1世に始まるマケドニア朝(867〜1057)において、ビザンツ帝国の軍事力は大いに伸長し、イスラームの支配下にあった南イタリアおよびクレタ島を奪回するとともに、バシレイオス2世によりブルガリア(第一次ブルガリア帝国)も滅ぼされ、その領土はビザンツに編入された。

帝国の版図は、東方はティグリス・ユーフラテス両河上流、北方はドナウ川に達し、新しい征服地には軍管区制が導入された。こうして、帝国に平和がもたらされ、宮廷を中心に古典文化の復興がみられたが、繁栄の陰で社会の変質が始まっていた。すなわち、小アジア一帯で大土地所有が進展し、帝国を支えてきた自由農民が没落していったのである。
そして、バシレイオス2世が亡くなると(1025)、大所領を擁する貴族勢力を中心に宮廷の内紛が起こり、ブルガリアやセルビアの反乱も加わって帝国は再び混乱した。
そのころ、東方ではセルジューク朝が小アジアに進出、西方でもノルマン人が南イタリアに進出するなど外敵の攻勢が激化し、ビザンツは後退を余儀なくされた。

この結果、キリスト教世界はローマ・カトリック教会とギリシア正教会とに分裂した。