北伐と国共分離
北伐当時の中国地図©世界の歴史まっぷ

北伐と国共分離

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北伐と国共分離

1925年7月、国民党は広州において革命政府としての国民政府を樹立した(広東国民政府)。国民革命実現のために北方軍閥政府打倒の軍事行動(北伐・総司令:蒋介石)をおこした。

北伐と国共分離

1926年7月 北伐開始

北伐と国共分離
北伐と国共分離 (中国革命の進展)©世界の歴史まっぷ

五・三〇事件は、中国民衆の反帝国主義運動の高まりを示すものであり、このような民族意識の高揚に応えて、1925年7月、国民党は広州において革命政府としての国民政府を樹立した(広東カントン国民政府)。国民政府は国民革命実現のために北方軍閥政府打倒の軍事行動(北伐ほくばつ)をおこすこととなり、国民革命軍(北伐軍)の総司令には蒋介石しょうかいせき (1887〜1875)が就任した。1926年7月広州を出発した北伐軍は、共産党の指導する農民運動に支援されて軍閥打倒は順調に進み、10月には早くも武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)を占領し、翌27年には南京・上海をその支配下におさめた。

1927年4月 上海クーデタ(四・一二事件)・国共分離

しかしこのころより、国民党お内部における左右両派の対立がさらに激しくなり、とくに左派と共産党との連合勢力に対する右派の蒋介石との対立が深まってきた。左派および共産党の勢力拡大に対する警戒は、浙江財閥せっこうざいばつなどの民族資本家や中国に利権をもつ帝国主義諸列強にもあった。蒋介石はこの情勢を判断して、4月12日にいわゆる上海クーデタ(四・一二事件)をおこし、多数の共産党員と労働者を虐殺して左派勢力を一掃し 南京に国民政府を樹立した(南京国民政府 。この結果、第1次国共合作は解消された。

このとき、蒋介石の動きに呼応した北京の軍閥政権のテロにより、李大釗が虐殺された。

北伐軍が長江流域を制圧すると、広州の国民政府は武漢に移転した。武漢国民政府の実権は、はじめ国民党左派と共産党が握っていたが、上海クーデタ後しだいに反共色を強め、やがて南京の国民政府に合流した。

浙江財閥

浙江財閥とは、上海を中心とする江蘇こうそ省・浙江せっこう省の大金融・産業資本家の総称である。彼らはもともと清朝の洋務官僚や外国資本との結びつきにより成長してきた来歴をもつ。上海クーデタののちは蒋介石国民政府との結合を強め、とくに蒋介石(彼も浙江省の出身である)を中心とする蒋・宋・孔・陳の「四大家族」は、政治権力と不可分に結びついた大官僚資本へと成長し、国民党政権の政治・経済の実権を事実上独占するにいたった。

北伐当時の中国地図

北伐と国共分離
北伐当時の中国地図©世界の歴史まっぷ

1928年 北伐再開

国民党内における対立と抗争によって一時中断していた北伐は、1928年にいたって再開された。

1927年〜 山東出兵

日本の田中義一内閣は国民政府の中国統一によって強力な政権が樹立されることを警戒し、3次にわたる山東出兵 をおこなって北伐軍の北上を妨害した。この田中義一内閣は東京で東方会議を開き、満蒙(中国東北地方・モンゴル)の権益を保持しようとする方針を確認した。

1928年6月 北伐完了

当時北京政府の実権を握っていたのは、軍閥の抗争に勝利した奉天派(東北軍閥)の張作霖ちょうさくりん(1875〜1928)であったが、北伐軍との戦いに敗れ北京を放棄した。そのため蒋介石はほとんど無抵抗のうちに北京に入城し、北伐の完成を宣言した。

1928年6月 張作霖爆殺事件

張作霖は本拠地の東北(満州)にむかう途中、日本軍(関東軍)の陰謀により列車を爆破されて死亡した(張作霖爆殺事件

1928年の第2次山東出兵では、北伐途上の国民革命軍と日本軍が済南において衝突し、いわゆる済南事件をひきおこした。

国民政府による全中国統一

その子張学良ちょうがくりょう (1901〜2001)は父のあとをうけて東北軍閥の実権を握り、国民政府側に合流して日本の侵略政策に反対する立場を明らかにした。こうして東北3省にも国民革命軍の青天白日旗せいてんはくじつきが掲げられることにより、蒋介石を中心とする国民政府による全中国の統一は一応達成された。蒋介石は上海を中心に中国経済界を支配していた浙江財閥と結んで、アメリカ・イギリスの支援のもとに国民党一党体制による統一政権をめざした。

東北(満州)進出をもくろむ現地の日本軍(関東軍)が、この機会に必ずしも日本に従順でなかった張作霖をのぞいて、いっきょに東北全域を日本の統制下におこうとはかり、独断でおこなったものである。

中国共産党

1927年8月 共産党紅軍組織

一方、中国共産党は国共分離ののち、1927年8月7日中央委員会を開催し、労働者・農民を基盤とする新しい共産党軍(紅軍こうぐん)を育成することや、地主階級の土地を没収して貧農に配分する徹底的な土地改革を推進することなどを決定した。この会議にさきだち、朱徳しゅとく (1886〜1976)らの共産党軍(紅軍)は江西こうせい南昌なんしょうで武装蜂起(南昌蜂起) をおこなったが、優勢な国民党軍の攻撃により不成功に終わった。

朱徳しゅとく賀竜がりゅう葉挺ようていらの部隊約3万が蜂起し、南昌に新政権を樹立したが、革命軍が準備不足であったこと、農民との結びつきがなかったことなどにより、国民党軍の反撃をうけて失敗した。しかし、この蜂起を機に紅軍が組織されたことは重要であり、現在の中国では、蜂起の8月1日を建軍記念日としている。

1927年 ソヴィエト政権樹立

このあと紅軍の一部は広東省の海豊かいほう陸豊りくほう両県に最初のソヴィエト政権を樹立した。また、湖南・湖北・江西・広東の4省では、共産党の指導下に、農民のいわゆる秋収蜂起しゅうしゅうほうき がおこったが、十分な成果をあげることはできなかった。しかしこのような動きのなかで紅軍はしだいに成長し、これらを率いて毛沢東 (1893〜1976)は湖南・江西省南部の井崗山せいこうざん(岡)にソヴィエト政権を樹立した。

1927年秋の収穫期に、共産党の指導下に農民の武装一斉蜂起がおこり、とくに湖南省の安源あんげんでは、毛沢東の指導下に農民と安源炭鉱の労働者の連合勢力による蜂起があったが、いずれも国民党軍の攻撃をうけて失敗した。

1931年11月 中華ソヴィエト共和国樹立

毛沢東の紅軍は翌年朱徳らの率いる紅軍と合流し、1930年になると、中国共産党の指導するソヴィエト地区は、華中・華南においてしだいに増加してきた。その後これらを統合しようとする動きがおこり、1931年11月、江西省の瑞金ずいきんを首都とする中華ソヴィエト共和国が樹立され、毛沢東がその首席となった。

孫文と蒋介石

辛亥革命に参加した蒋介石は孫文の信任が厚く、ソ連留学後、革命軍の幹部を養成する黄埔こうほ軍官学校校長という要職についた。孫文の死後、未亡人の宋慶齢そうけいれいの妹宋美齢そうびれいと結婚し、後継者としての立場を固めた。

孫文と蒋介石
孫文(前)と蒋介石(後)(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

中国革命の進展流れ図

第一次世界大戦と東アジア
中国革命の進展流れ図©世界の歴史まっぷ
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