宋代の文化
宋の文化は遼・金・西の異民族の圧迫もあって、国粋的な傾向が強く、伝統的な民族文化に根づいた中国的なものであった。
また、優雅で華麗な唐貴族文化とは異なり、新しい支配層である地主・官僚などの士大夫階級を中心に、学問・思想・文学・芸術などで、形式美にとらわれない内省的で理知的な文化が発達した。こうした宋代の文化の発達は士大夫階級だけでなく、都市の経済的発展により登場してきた新興の庶民階級にも波及し、文芸や工芸の分野で新たに庶民文化が栄えた。
宋代の文化
唐(王朝)文化が国際的で異国情緒にあふれていたのに対し、宋の文化は遼朝・金朝・西夏の異民族の圧迫もあって、国粋的な傾向が強く、伝統的な民族文化に根づいた中国的なものであった。
また、優雅で華麗な唐(王朝)の貴族文化とは異なり、新しい支配層である地主・官僚などの士大夫階級を中心に、学問・思想・文学・芸術などで、形式美にとらわれない内省的で理知的な文化が発達した。こうした宋代の文化の発達は士大夫階級だけでなく、都市の経済的発展により登場してきた新興の庶民階級にも波及し、文芸や工芸の分野で新たに庶民文化が栄えた。
学問・思想
宋学
経典の字句の解釈ばかりにとらわれた漢代〜唐(王朝)の訓詁学を否定し、宇宙を貫く哲理や人間の本質について深い思弁をめぐらし、同時に知の実践を重んじる宋学という新しい儒教思想が誕生し、開花した。北宋の周敦頤は、『太極図説』を著し、宇宙の原理から道徳の根本理念を解き明かし、宋学の祖となった。宋学は弟子の程顥・程頤兄弟に受け継がれ、やがて南宋の朱熹によって集大成され、宋学の最高峰として朱子学と称される。
朱熹は、万物の根源を宇宙万物を貫く原理たる「理」と物質を成り立たせている根本元素たる「気」に求め(理気二元論)、宇宙の「理」が人間に宿ったものである「本然の性」(理性)こそが人間のあるべき本質であるとした。(性即理)そして欲望や感情を抑えて「本然の性」を十全に発現させるための修養を説き、宇宙の万物に内在している「理」をひとつひとつ極めていくことを修養の本質として提示した(格物致知)。また漢代以来、儒学の経典として尊重されてきた五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)よりも、『大学』『中庸』『論語』『孟子』を高く評価し、これに注釈をほどこして四書と称した。
こうした朱子学は、元(王朝)・明(王朝)から清(王朝)の初期に至るまで儒学の正統とされ、さらに朝鮮王朝や日本の江戸幕府でも官学として尊重された。
朱熹が学問や知識を重視して客観的な概念論を説いたのに対し、同時代の陸九淵(陸象山)は、人間の心性を重視し、心の中にこそ理は内在すると説き(心即理)、認識と実践の統一をはかる主観的な唯心論を説いた。この説は、のちに明の王陽明によって陽明学として発展させられた。( 明後期の社会と文化)
朱子学
朱子学は元代に科挙の科目となったことから、官学としてさかんになった。やがて清代になると、朱子学にかわって文献を重視する実証的な考証学が栄えた。
朱熹
朱熹の活躍した当時の中国は、華北の大部分を金朝に奪われてしまい、艱難に直面した時代であった。朱熹の生誕地は福建省のほぼ中央で、その誕生は南宋の初めである。陸九淵(陸象山)の生家が薬種商兼農業の大家族で郷里に土着していたのに対し、朱熹の生家は官僚の小家族で、郷里を離れて転々と移住した。若年のとき禅に傾倒し、19歳で科挙に合格するが、このときも禅理によって経典を説いたと告白している。科挙によって進士となったが、官途を避け、師を求めて学問を続け、読書にいそしんだ。しばしば推薦されて官位につくように勧められたが、これを辞し、また官位についても長続きしなかった。
中華思想
中国では、古くから周辺の異民族に対し、中華思想と呼ばれる文化的な優越感があった。これは漢族とそれ以外の異民族の区別を明確にし、漢族を華と称してその国土を中華・中国・中原と呼んで美化するとともに、異民族を文化程度の低い夷狄と称して蔑視するもので、華夷思想とも呼ばれた。
周辺民族の圧迫を不断にこうむった宋代には、その裏返しとして中華思想が強烈に主張され、朱子学では、漢族の優位を強調する華夷の別が論じられた。朱子学ではまた君臣官の道義を至上の道徳とする大義名分論が唱えられた。
史学
宋学の影響をうけ、宋代の史学は大義名分論的道徳観・歴史観が顕著である。「嗚呼」という慨嘆の語がしばしばはさまれることから「嗚呼史」と称される欧陽脩の『新五代史』、『春秋』のあとをうけ戦国時代から五代末までの通史を編年体で叙述した司馬光の『資治通鑑』はその代表である。なお朱熹はこれにもとづいて、大義名分の要目を明示した『資治通鑑綱目』を著している。
美術・工芸
北宋画
宋では宮廷に画院がおかれて絵画が保護・奨励され、山水画や花鳥画が発達した。
徽宗や宮廷画家を中心とする院体画は、多彩色で写実的な画風をもち、技巧の点でもすぐれ、伝統的な様式を重視した。こうした院体画の画風は北宗画(北画)とも称され、南宋では夏珪・馬遠などの画家が現れた。
南宋画
また士大夫階級などの知識人たちによる文人画は、形式にとらわれることなく単色で細く柔軟な線を特色とし、その画風から南宋画(南画)とも呼ばれた。北宋の李公麟・米芾、南宋の牧谿などの画家を輩出した南宋画は、明代に全盛となった。
陶磁器
陶磁器では、青磁・白磁のような単色で簡素ではあるが、内面的な色彩美を追求しようとする宋磁が発達し、その製陶技術は高麗時代の朝鮮や江戸時代の日本、さらにはベトナムやタイにも影響を与えた。
文学
散文
宋代では散文が盛んになり、形式にとらわれない自由な文章が流行し、多くの名文家が現れた。形式美をきわめた四六駢儷体は、ひきつづき唐代にも流行したが、欧陽脩は唐代の韓愈・柳宗元を受け継いで簡素で力強い漢以前の古文の復興を唱えた。唐代の韓愈・柳宗元と宋代の欧陽脩・王安石・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曾鞏をまとめて「唐宋八大家」と呼ぶ。蘇軾は宋代最大の文豪として知られる。
韻文
韻文では、歌曲の歌詞が独自のジャンルとして発展した詞が唐末以降流行した。これらは唐詞に対して宋詞と呼ばれ、しだいに芸術性を高めて、北宋の柳永・南宋の陸游らの名手が排出した。蘇軾もまた詞の名手である。
演劇
また雑劇とよばれる簡単な筋書きの演劇も庶民の間に流行し、北宋の滅亡後は金朝の院本、元の元曲(北曲)にうけつがれて発展した。
宗教
仏教
唐代に栄えた仏教は、やがて中国化し、宋代には実践的な禅宗と浄土宗が中国仏教の主流となった。
禅宗は、坐禅によって自力で悟りを開こうとする宗派で、士大夫階級に支持され、宋学にも影響を与えた。禅宗の諸派のうちもっとも栄えたのが臨済宗であり、曹洞宗は、坐禅を重んじて多くの士大夫階級の参禅をみた。どちらものちの鎌倉時代の日本に伝来した。
浄土宗は、念仏を唱えて阿弥陀佛にすがれば極楽往生できると説く宗派で、士大夫階級から庶民まで広く信徒をえて、念仏結社が各地に作られた。一般的に、宋代の仏教には他宗兼修がみられ、禅浄一致などが唱えられた。
道教
歴代の王朝の保護をうけて繁栄してきた道教は、次第に迷信的要素が色濃くなり、腐敗も進んできた。金代にはこうした道教に改革運動がおこり、厳しい修行生活を唱える実践的な全真教が王重陽によって開かれた。その弟子、長春真人が教主になると、全真教はいっそう発展し、江南を基礎とする正一教と道教会を二分することになった。
なお、長春真人はのちにチンギス=ハンの招きを受け、西征途上のチンギス=ハンとはるばるヒンドゥークシュ山脈の南で会見している。『長春真人西遊記』はその大旅行の記録である。
科学技術
印刷技術
木版印刷術は、隋または唐初に始まり、おもに仏典や辞書・暦書が印刷された。やがて五代から宋初にかけては儒教の経典も印刷され、宋の文治政策や科挙の励行を背景に、木版印刷術は広く普及した。
また、北宋の『夢渓筆談』(沈括)によれば、11世紀なかばには活版印刷(膠泥文字)も発明されたというが、実用化にはいたらなかった。
火薬
火薬は、唐代に発明されていたが、宋代になると改良が加えられ、その製法は11世紀半ばの『武経総要』(曾公亮ら編)にくわしく記されている。
火薬が武器として実践的に使用されたのは、12世紀後半、南下する金軍に南宋が用いたのが最初であるといわれ、13世紀にはイスラーム世界を経由してヨーロッパに伝わった。
磁石
磁石の指北性については古くから知られていたが、『夢渓筆談』には偏角(磁針の指す北と地理上の真北の間にあるわずかなズレ)のことまでが指摘されている。磁石が羅針盤として航海に利用されたのは、北宋末の11世紀末から12世紀にかけてのことで、やはりイスラーム世界を経由してヨーロッパに伝わり、14世紀イタリアでより精巧な羅針盤に改良された。
こうして宋代の科学技術、とくに火薬・羅針盤はルネサンス時代のヨーロッパで改良が加えられて実用化が進み、大航海時代以降のヨーロッパ世界の拡大に絶大な役割を果たした。