宋(王朝) 宋代の社会
清明上河図(部分)(張択端画)

宋代の社会
秦漢以来、中国歴代王朝は北方民族との対峙という軍事的観点から、要害堅固の地である咸陽・長安・洛陽を国都とし、治安維持を優先てきた。
唐を滅ぼした朱全忠は、江南からの穀物を輸送する大運河と黄河が合流する要衝開封に国都を定め、流通経済の発展を背景に、軍事的観点よりも財政的条件を優先した。

宋代の社会

遼朝
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宋代の支配階層である新興地主階級は形勢戸けいせいこと呼ばれ、そのうち官僚を出した家は官戸かんこといい、官戸にはとくに差役さえきの免除などの特典が与えられていた。彼らは農業経営を基盤とする大土地所有者で、こうした土地を一般に荘園と呼び、荘園内の生産の基本的な担い手は、主として佃戸でんこと呼ばれる小作農であった。
佃戸には、収穫の5〜6割を地租として地主に収奪されるみじめな境遇のものもあったが、自作農が収入を増やすため地主の土地を耕す自小作農も存在し、この地位は一概にはいえない。
南宋時代になると、抗租こうそと呼ばれる佃戸の地主に対する小作料減免闘争もしばしばみられるようになった。

宋代の住民は、主戸しゅこ客戸きゃくこに大別され、主戸は現在地を本拠とし、客戸は本籍を離れたよそ者であった。主戸は土地所有面積と両税の額を基準として、1〜5等に分かれていた(戸等制)。すなわち1〜2等戸のような上等戸は、ほぼ官戸・形勢戸に該当する地主層であり、最下等の5等戸のほとんどは、零細な自作農や自小作農であった。

淮河以北の華北を金朝に奪われながら、南宋が150年もの間政権を維持できたのは、江南の穀倉地帯を確保できたからである。五代以来、江南のデルタ地帯を中心に、低湿地を堤防で囲んで干拓した圩田うでん囲田いでんと呼ばれる水利田が、王朝や在地の地主層の主導で造成された。また灌漑するために、竜骨車りゅうこつしゃという足踏み式ポンプも使用されるようになった。

水稲栽培技術にも革新があり、苗代つくりによる移植法や 施肥せひなど、集約的水稲栽培の基本形態が完成された。(これ以外にも、クリークの泥の客戸法や正条植え、多数回の除草などもおこなわれた。)稲の品種も、11世紀初めには干ばつに強く痩せ地にも適した早稲わせ種の占城稲せんじょうとう(チャンパー米)がベトナムから導入され、同世紀末には江南の水田の80〜90%がこの品種で占められたという。これを利用して1年2期作もおこなわれ、また麦の需要増加は、麦を裏作とする稲・麦の1年2毛作の発達を促した。この時代に江南、とくに長江下流デルタの稲作地帯は、「蘇湖そこ江浙こうせつ)熟れば天下足る」とことわざにもいうように、農業生産と経済の中心になった。こうして唐代まで華北にあった中国の農業と経済の中心は、完全に江南へと移行したのである。

稲や麦のような主要な穀物の生産力が向上すると、各地の商品作物の栽培や、遠隔地間の取り引きや手工業生産も盛んになった。は、唐代に一般的な日常の嗜好飲料として普及し始め、宋代にもこの傾向はますます強まり、都市には各所に茶館ができた。おもな生産地は長江下流域や四川地方で、宋は茶の消費の増加に着眼して専売制を実施した。また周辺の諸民族にも普及し、重要な貿易品ともなった。

陶磁器では青磁白磁に代表されるすぐれた宋磁そうじがつくられ、なかでも江西省北部の景徳鎮けいとくちんが中国第一の窯業都市として発展した。またこれ以外にも甘蔗かんしょ栽培(トウモロコシ)、絹織物や漆器、製塩業や製糖業などの手工業も発達した。

青磁:起源は殷周時代の灰釉陶かいゆうとうであるといわれる。

唐代までの都市は政治的性格が強く、商業は市という一定の地区内に限定され、夜間の営業も許されなかった。
宋代になると、商業の発達によってこのような坊市制は崩れ、昼夜の区別なく営業が許され、常設店舗をかまえる坐賈ざこという商人、遠隔地と取り引きをする客商きゃくしょう、問屋を営む牙行がこう、客商と生産者を仲介する牙人がじんという仲介人など、さまざまな形態の商人が活躍した。
また、地方(州・県の城外)の水陸交通の要地や寺社の門前にひらかれた草市そうしがもとになり、・店などの名で呼ばれる地方的な小商業都市が各地に成立した。

草市:
城内の本来の市に対し、城外の小規模な都市を草市と呼んだ。

宋代には海外貿易も活発で、臨安(杭州)、明州泉州広州などの海港都市にはムスリム商人も往来し、南海貿易が栄えた。
唐代には広州のみにおかれていた市舶司しはくし(海外貿易を管理する官庁)も、宋代になると、これら海港都市にもれなく設置されるようになった。
なお、南宋〜元朝には、広州にかわって泉州が中国最大の貿易港として繁栄第一と称された。

商業上の決済のために商人が発行した手形の交子会子は、やがて政府にひきつがれて紙幣として発行された。

交子こうし:交子は四川の成都の金融業者が発行した預かり手形が有価証券として取引に使用されていたものを政府が引き継いで発行・流通させた世界初の紙幣である。
会子かいし:会子は、北宋時代の大都市の金融業者が発行した為替手形に由来し、南宋では政府によって兌換紙幣だかんしへいとして発行された。

しかし、のちに濫発により経済は混乱した。また、商人はこう、手工業者はさくと呼ばれる同業組合を結成し、相互扶助や営業の独占がはかられた。

開封の繁栄

秦漢以来、中国歴代王朝は、北方民族との対峙という軍事的観点から、要害堅固ようがいけんこの地である咸陽かんようや長安・洛陽を国都としてきた。
また、その都市の内部も、治安維持を優先するあまり、整然とした街路と、街路に区切られた坊と呼ばれる方形の居住区に住民を押し込め、夜間外出を禁止した。さらにこれらの都市は、夜禁の制によって、日没とともにすべての城門を閉じて人々の出入りを禁ずる、閉鎖的な性格をもっていた。
ところが、唐を滅ぼした朱全忠が後梁の国都に定めた開封は、江南からの穀物を輸送する大運河と黄河とが合流する要衝であった。すなわち、当時の流通経済の発展を背景に、軍事的観点よりも財政的条件が国都選定で優先されたことを物語っている。
開封も日没とともに城門を閉じたが、人や物資の移動が盛んになってくると、城門の外であれば、夜禁の制に関係なく夜間でも営業できるとして、旅館・飲食店・商店などがつぎつぎとたてられ、城外の市街地化も進んだ。城内の一等地には瓦市がしと呼ばれる繁華街が出来上がり、瓦市には茶館・酒楼といった飲食店、勾欄こうらんと呼ばれる演芸場がたてられ、早朝から深夜にいたるまで老若男女の庶民が集まって、繁栄をきわめた。
こうした開封の繁栄のさまは、『東京夢華録とうけいむかろく』という当時の書物に生き生きと描かれている。

清明上河図

宋(王朝)
清明上河図(部分)(張択端画)

春分から15日目が清明節で、厳しかった冬が過ぎ春の一日を人々祖先の墓参などで郊外にくりだして過ごした。こうした都の開封の賑わいを張択端ちょうたくたんが描写したものが「清明上河図」で、図はその一場面である。開封城内の商店街は買物客や行楽客であふれ、馬やロバやラクダまで行き交い、酒食を提供する二階建ての楼にも多くの人々がつめかけている。

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