後期の十字軍
第4回十字軍(1202〜1204)は、教皇権の絶頂期にあったインノケンティウス3世(ローマ教皇)により提唱され、ヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロの進言により十字軍は聖地に向かわず、コンスタンティノープルを占領、略奪し、ラテン帝国(1204〜1261)を樹立した。この十字軍の脱線の背景には、諸侯や騎士の領土欲のほかに、地中海商業をめぐる東ローマ帝国とヴェネツィアの対立があった。ビザンツ帝国は一旦滅亡した。
後期の十字軍
第4回十字軍(1202〜1204)
少年十字軍
その後、1212年にはフランスとドイツで、神の啓示を受けたとする少年エティエンヌとニコラスの呼びかけに応じ、数千から数万の庶民の子供が熱狂的に聖地を目指した。いわゆる少年十字軍である。準備や資金を欠き、途中で倒れたり、非道な商人により奴隷に売られるなど悲惨な結果となった。
第5回十字軍(1228〜1229)
つづく第5回十字軍(1219〜1221/1228〜1229)は、アッコンからイスラーム側の軍事的、経済的拠点のエジプトに向かったが、カイロに達する前に敗北した。
その後、親イスラーム的なフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)とアイユーブ朝との外交折衝(1228〜1229)により、一時イェルサレムは返還されたものの、1244年フワーリズム(ホラズム)系トルコ人により再び奪われた。
第6回十字軍(1248〜1254)
これに大きな衝撃を受けたのが、ルイ9世(フランス王)である。信仰に厚く、死後聖者に列せられたルイ9世は、単独で第6回十字軍を組織すると、エジプトを攻めた。
また、このころ急速に台頭したモンゴル人との提携を企て、フランチェスコ派の修道士ルブルックをカラコルムに派遣した。しかし、アイユーブ朝にかわったマムルーク朝(1250〜1517)により撃退された。
第7回十字軍(1270)
その後ルイ9世(フランス王)は第7回十字軍を組織し、北アフリカのチュニスを攻撃したが、その地で病没し失敗に終わった。
一方、パレスチナの十字軍国家では、モンゴル人を恐れてマムルーク朝との提携を望んでいたが、モンゴル軍を撃退したマムルーク朝により、アンティオキア候領(1268)、トリポリ伯国(1289)、アッコン(1291)と相次いで滅ぼされ、聖地回復の夢は完全についえさった。