文学革命
中国の文化革命(陳独秀・胡適・李大釗)©世界の歴史まっぷ

文学革命

文学革命は、狭義には胡適の提唱に始まる白話文学運動をさし、広義には1915年以後、五・四運動にいたるまでの啓蒙的新文化運動を総称する。中心は北京大学であり、開明的な学長である蔡元培のもとに陳独秀・胡適・李大釗らが教官として招かれ、革新的な思想家が集まっていた。

文学革命

辛亥革命 辛亥革命)によって清朝は滅亡したが、新しい中華民国の政治の主導権は、袁世凱 を中心とする軍閥勢力によって奪取され、孫文 革命の胎動)らが目指した民主的な近代国家や新しい社会は実現しなかった。このような状況は、大戦下における中国の革新的知識人層を失望させた。しかしまた一面では彼らによる啓蒙的革命運動の積極的展開をもたらすこととなった。この運動は民衆の自覚にもとづく根本的社会改革をめざす立場から、文学革命とよばれる。

この年、陳独秀ちんどくしゅう(1879〜1942)らが発刊した『青年雑誌』(翌年『新青年』と改称) は、中国の革新を目標とする啓蒙的思想活動の中心となった。陳独秀らは論説で、儒教道徳や中国の古い因襲を攻撃すると同時に、「民主と科学」をスローガンに掲げて、欧米の新しい思想を紹介し、中国の青年層に大きな影響を与えた。

新青年
陳独秀『新青年』©世界の歴史まっぷ

『青年雑誌』から出発した『新青年』は、1915年9月の創刊より22年7月の停刊まで全9巻が刊行され、中国の知識人に多大な影響を与えた。初期においては「民主と科学」が中心的課題であったが、ロシア革命以後はマルクス主義的立場が強くなった。

「わが国の社会は隆盛におもむくであろうか、それとも滅亡におもむくであろうか……ただ新鮮活発な青年が自覚し奮闘することに望みをかけるしかない……」(創刊号の冒頭の一節より)

また胡適こてき(1891〜1962)は、1917年「文学改良芻議ぶんがくかいりょうすうぎ」を発表し、形式主義に陥っていた中国文学の伝統を打破し、表現の自由な白話文学(口語文学)を提唱した。白話文学は、文学が社会の迷蒙を払い、民衆の意識を変革させることも課題としており、中国文学史における革命的な変革を示すものであった。この提唱をうけて文学活動を実践した代表的作家は魯迅ろじん(1881〜1936)であり、『狂人日記 や『阿Q正伝あきゅうせいでん』は、青年層に多大な影響を与えた。また文学革命の中心となった北京大学では、李大釗りたいしょう(1889〜1927)がロシア革命の影響下にいち早くマルクス主義の研究を創始し、陳独秀らもこれに参加した。

『狂人日記』は、狂人の手記という形式で儒教批判を含む鋭い封建制批判をおこなったもので、知識人の間に多くの反響を生み、中国近代文学の出発点となった。

文学革命は、狭義には胡適の提唱に始まる白話文学運動をさすが、広義には1915年以後、五・四運動にいたるまでの啓蒙的新文化運動を総称している。いずれにせよ、文学革命の動きの中心となったのは北京大学であり、開明的な学長である蔡元培さいげんばい(1868〜1940)のもとに、陳独秀・胡適・李大釗らがつぎつぎと教官として招かれるなど、革新的な思想家が集まっていた。1919年の五・四運動が北京大学の学生からまずおこったのは、このような状況を背景としている。

魯迅と藤野先生

魯迅は1902年4月、20歳のとき、官費留学生として来日し、2年間を東京で過ごしたあと、仙台の医学専門学校に入学した。彼は、ここで解剖学の藤野厳九郎ふじのごんくろう教授より温かい指導をうけたが、学業半ばにして、医学より文学の道に転ずることとなった。この間の状況は、彼の作品『藤野先生』に懐旧的に描かれており、魯迅の人間像をよく示している。

文学革命の綱領

以下の文章は、『新青年』2巻2号(1916年10月)に載った魯迅の寄稿の一部であり、『文学改良芻議』のもととなったものである。ここでは、胡適があげた文学革命の基本原則ともいうべき、8項目を列挙した。
  1. 典故(典拠となる故事)を用いない。
  2. 常套じょうとう語を用いない。
  3. 対句を使わない。
  4. 俗字・俗語を避けない。
  5. 文法構造を追求しなければならない(以上はいずれも形式上の革命)。
  6. 悩みもないのに深刻ぶらない。
  7. 古人を模倣せず、一語一語に個性がなければならない。
  8. 言葉に中味がなければならない。(以上はいずれも精神上の革命)
(原典:中国近代思想史第4冊)