アテネ アテネ民主政
アテナイ民主制への歩み

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アテナイ民主制への歩み

ドラコンの立法

半島であるアッティカを支配領域としたアテネでは、紀元前8世紀半ばに王政から貴族政に移行し、アルコンと呼ぶ役人が選ばれて統治したが、紀元前7世紀にはその任期も1年に限定された。しかし役人は貴族が独占し、アルコン経験者がアレオパゴスの丘で開かれる会議(アレオパゴス会議)を構成して裁判と国政の監督を行っていた。

アレオパゴス会議とは、古代アテネの政治機構。アテネの政治における貴族勢力の牙城がじょうであり、古代ローマの元老院のような役割を果たした。

参考 アレオパゴス会議 – Wikiwand

貴族のキュロン(Kylon)は紀元前632年に、アクロポリスを占拠して独裁権力をえようとした。これはのちに現れる僭主せんしゅ政のさきがけであったが、他の貴族も平民も彼を支持せず、クーデターは失敗に終わった。その後貴族と平民の対立が深まったので、貴族の中からドラコンが立法者として現れ、それまで貴族の恣意しいに任されていた裁判や制度の運営を成文法を制定することによって公正で明確なものとした。

多くのポリスにこのような立法者が現れた。スパルタのリュクルゴス、南イタリアのロクリスのザレウコスなどが代表的で、いずれも厳格な法を定めたとされている。

これらの法は市民の身分や義務、権利を定め、犯罪への厳しい刑罰によって私人間の報復による解決をポリス裁判の手にゆだねようとするものであったが、きわめて厳格で、平民の政治的・経済的要求に応えるところは少なかった。

ソロンの改革

こうしてアテネでは紀元前6世紀初めには借財によって身体を抵当に入れて隷属的労働に陥る人々(ヘクテモロイ)の存在が深刻になり、ソロンがアルコンとなって調停者として改革を行った。(紀元前594年ころ)。
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ソロンの財産政治
ヘクテモロイとは、6分の1という意味で、おそらく農業の収穫の6分の1を債権者に貢納する義務を負っていた人々である。

ソロンは借財をいっきょに帳消しにし、以後市民が身体を抵当にすることを禁じて市民の奴隷化を防止し、市民団の枠組みを固めた。また市民をその財産(所有地の農業生産物に換算)に応じて、500メディムノス級、騎士級、農民級、労働者級の4身分に分け、各身分の政治参加の役割を定めて市民の社会的地位を明確にした。(財産評価政治=ティモクラティア)

メディムノスは穀物や液体の単位。第1級はその土地で年間500メディムノス以上の収穫がある人たちで、騎士級は300、農民級は200メディムノス以上とされた。

しかし役人は、上位3階級のみからとされ、労働者級は民会と民衆法廷に参加することができるだけであった。ソロンの改革もアテネの貴族と平民との対立を解消することはできず、また党派間の対立もしだいに激しくなった。

調停者ソロン

伝承によればソロンは、自らの改革をうたう詩人でもあった。彼はこのほか小麦の輸出を禁じてアテネの農業を保護し、贅沢をも禁じた。また党派の争いが生じたとき市民は必ずこれに参加して戦わなくてはならない、という法をつくったともいわれる。これは一般市民の政治意識を高めることをめざしたものであろう。

ペイシストラトスの改革

アテネ 4民族制

党名居住地居住者
平地党平地地主
海岸党海岸商人
山地党山地小作人
貴族のペイシストラトスは戦争で活躍して名声を得、山地の貧しい農民たち(山地党)を支配者として策略によって独裁権力を握った。このように非合法にポリスの権力を奪取して支配するものは僭主せんしゅと呼ばれた。
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ペイシストラトスの僭主政治
この時代、他のポリスにも僭主が多く現れた。総じて僭主は一族で権力を独占し専制的であったから、コリントスなどをのぞいてその支配は短命で終わった。

ペイシストラトスとその子たちによる僭主政治は30年以上続いた。ペイシストラトスの時代に、貧しい農民に土地が分配されて自律的市民に成長することを可能にした。
また、アッティカにあるラウレイオン銀山を開発してその資金でアクロポリスやアゴラを神殿建築などで美化し、またホメロスの叙事詩を書物として流布させ、宗教ではアテナ女神礼拝やディオニュソスの祭り祭をさかんにして、アテネ市民の愛国心と誇りを高める政策もとった。彼の政策はのちのクレイステネスの民主政改革の土台を作ったといえるのである。

ペイシストラトスはアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。選挙運動の時にはペイシストラトスに反対したソロンのような学者たちも、この仕事に参加した。プラトンのものとされる対話篇『ヒッパルコス』によれば、ペイシストラトスの息子ヒッパルコスはパンアテナイア祭で毎年この写本を朗唱するように命じた。

参考 ホメーロス – Wikiwand

ペイシストラトスの策略

彼は自分で身体に傷をつけ、人々に敵に襲われたといつわって親衛隊をもつことを認めさせ、それを用いて独裁権を握った。また市民に武器を携帯させて集め、演説している間に部下に武器を召し上げさせたという。

クレイステネスの改革

ペイシストラトスの子は暴君化して追放され、紀元前508年ころ貴族クレイステネスが広い層の平民の支持を得て大胆な改革を行って貴族を抑え、民主政の基盤を確立した。

クレイステネスはこれらの改革をアルコンなどの役職につかず、民会の一員として推進したと思われる。
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クレイステネスの改革

クレイステネスは、貴族が拠り所としていた血縁に基づく4部族制を解体して、市民を居住する地区(デーモス)に登録し、築を30のグループにまとめ、それらをたくみに組み合わせて地縁的な新しい10部族制をつくりあげた。
ソロン時代からある四百人評議会も新部族から選出する五百人評議会に改めて、民会の先議期間とし、各部族から選ぶ10人の役職をいくつか創設した。

このうち代表的な役職が将軍(ストラテゴズ)で、これは軍事職であったが、のちには行政をも担当する重要な職となる。なお、ペリクレスの時代までアテネの役職はいずれも無給であり、したがって富裕な市民しか就任できないのが実情であった。

また、彼が僭主になる危険性のある政治家を追放するために定めた「陶片追放(オストラシズム)」の制度も有名である。
デーモスや新部族は軍制とも結び付けられ、アテネではいよいよ広い層の平民が市民としての自覚をもち積極的に政治に参加していく条件が整えられた。
一般にこのころまでをアテネの古拙こせつ期(アーケイック時代)と呼び、これより以後古典期(クラシック時代)が始まるとされるのである。

陶片追放

独裁を狙う人物がいるとの告発があった場合に民会で投票するか否かを決めた。陶片に名前を書いて投票し、得票数が6000票をこえたもののうち第1位のものを(または6000票以上の得票者すべてを)10年間国外に追放した。ただし市民権や財産は剥奪しなかった。この制度はペルシア戦争後の政治抗争の道具として濫用されて本来の意義を失うことになる。

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