- シュメール人:紀元前2700年ころまでにはティグリス・ユーフラテス両河河口付近に都市国家を多数形成。
- セム語系所属
シュメール人とセム語系諸族
ティグリス・ユーフラテス両河は、水源地帯の雪解けによって毎年定期的に増水するので、メソポタミアでは灌漑・排水施設を整備してこの水を利用すれば、非常に豊かな農業生産が可能であった。紀元前4千年紀の中ごろより、両河下流の沖積平野では人口が増加し、神殿を中心とした大村落が数多く成立し、銅や青銅器なども普及し始めた。文字が発明されたのもこの頃である。
メソポタミアとエジプトの農業
メソポタミアでもエジプトでも農業の生産性は、中世ヨーロッパのそれの10倍以上の高水準であった。しかし高温乾燥地での灌漑農業は、激しい水分蒸発によって地表に塩分が集積するので、脱塩のための排水がおこなわれないと農地は不毛になってしまう。エジプトではナイル川の水量が多く、また流域の傾斜が比較的大きかったため、灌漑を終えたあとの用水を下流に落とす際に、耕地表面の塩分を洗い流すことができたが、土地が極めて平坦なメソポタミアでは、排水が容易でなく耕地の塩化が進みがちだったうえに、水流が穏やかなために水路が泥土の沈殿で埋まりやすく、増水期にはしばしは大洪水に見舞われた。
紀元前3000年ころになると、余剰生産物の増加にともなって、農業や牧畜に直接従事しない神官・戦士・職人・商人などが増え、大村落は都市に発展した。最初の都市文明建設者はシュメール人で、紀元前2700年ころまでには両河の河口付近に彼らの都市国家が多数形成された。ウル(Ur)・ウルク(Urk)・ラガシュ(Lagash)などがその代表であり、紀元前25世紀ころのウル第1王朝時代に全盛期を迎えた。各都市は周囲を城壁で囲まれ、中心部にはジッグラトのそびえる守護神をまつる神殿があった。都市はこの神が支配すると考えられ、最高の神官を兼ねた王が神の名のもとに神権政治を行なった。土地は原則としてすべて神のものとされ、市民は神殿共同体に属し、神殿におさめられた税を保管する神殿倉庫は国庫の役割を果たした。外国との貿易も神殿が独占し、戦争も神の名においてなされた。しかしやがて支配者の軍事的役割の増加とともに、王権の性格はしだいに世俗的なものとなり、それにともなって神殿と利害の対立した王が、神官勢力の特権を抑えようとすることもあった。
各都市国家は、大規模な治水や灌漑によって農業生産を高め、交易によって必要物資を入手し、豊かな経済力をもとに壮大な神殿・宮殿・王墓を築いて、高度な文明を発達させた。しかし、都市間にくりかえされた覇権をめぐる戦争に加えて、周辺の山岳民や遊牧民の侵入をうけて各都市の勢力は衰え、やがて北方に興隆したセム語系のアッカド人によって征服されてしまった。
アラビア方面よりメソポタミアに移住したセム語系諸国のうち、中部地方に定着したアッカド人は、紀元前24世紀のサルゴン1世(在年不詳)のときに、メソポタミアの都市国家群の統一に成功した。このメソポタミア最初の統一国家は、さらにシリアや小アジアやアラビアにまで支配の手を伸ばしたが、約1世紀後に東方の山岳民の侵入をうけて滅んだ。
メソポタミアとインドの交流
アッカドの王はアラビア半島のペルシア湾岸にも遠征したが、それにはインドに通ずる海上ルートを支配下におく狙いがあった。メソポタミアとインダス川中・下流域との間に古くから交渉のあったことは、ベルシア湾沿岸の各地よりインダス文字を刻んだ印章が出土することからよく知られている。メソポタミアの粘土文書にもこのことにふれたものが少なくなく、そのなかでしばしば言及されているディルムンとマガンは、現在のバーレーンとオマーンにあたると考えられ、それぞれインドとの交易の中継地として、また銅の産地として重要であった。インドからは建築用資材として木材が輸入された。