イスラーム帝国の成立
アラブ人ムスリムの間には、ムハンマド家の出身者こそがイスラーム共同体の指導者にふさわしいとする考えが広まりつつあった。この一員に属するアッバース家は、この思想をたくみに利用し、マワーリーやシーア派ムスリムの協力もえてウマイヤ朝打倒の秘密運動を展開した。
イラン東部のホラーサーン地方で蜂起した革命軍は、ウマイヤ朝の軍隊を追って西方に進出し、749年にはイラクの州都であるクーファに入城、翌年アブー・アル=アッバース(サッファーフ)(位750〜754)を初代カリフに推戴した。イスラム帝国としてのアッバース朝(750〜1258)
イスラーム帝国の成立
『コーラン』には信者の平等が説かれている。そのため征服地の農民たちは、イスラームに改宗すれば、アラブ人と同等の権利を享受できるはずだと考えた。これらの新改宗者をマワーリーという。
しかし国家財政の基礎は農民たちが支払う地租にあったから、マワーリーの納税面での平等は容易に実現せず、アラブ人の中にもウマイヤ朝の強権政治を批判するものが現れた。
このころアラブ人ムスリムの間には、ムハンマド家の出身者こそがイスラーム共同体の指導者にふさわしいとする考えが広まりつつあった。この一員に属するアッバース家は、この思想をたくみに利用し、マワーリーやシーア派ムスリムの協力もえてウマイヤ朝打倒の秘密運動を展開した。
イラン東部のホラーサーン地方で蜂起した革命軍は、ウマイヤ朝の軍隊を追って西方に進出し、749年にはイラクの州都であるクーファに入城、翌年アブー・アル=アッバース(サッファーフ)(位750〜754)を初代カリフに推戴した。イスラム帝国としてのアッバース朝(750〜1258)の成立である。
アッバース朝国家の基礎を築いたのは、第2代カリフのマンスール(カリフ)(754〜775)である。彼は王朝建設に功績のあったホラーサーン軍を重用し、カリフ権力の第一の支えとした。
また租税庁や文書庁などの官庁を設けてイラン人の書紀を採用し、さらに諸官庁を統括する宰相(ワズィール)の職を創設して官僚機構の整備に努めた。さらに主要な街道に駅馬を配して駅伝の制度を整えたことは、地方の実情把握に効果を発揮し、これによって中央集権的な体制づくりが着実に進行した。
またマンスールは、新王朝にふさわしい首都の造営にも力を注いだ。みずから入念な調査を行なったのちに、ティグリス川西岸の小村バグダードを首都建設後に定めた。新首都は766年に完成し、「平安の都」(マディーナ・アッサラーム)と名付けられた。三重の城壁に囲まれた円城の内部には、カリフの宮殿やモスクがそびえ立ち、商人や職人は城壁の外側に住むことを義務付けられた。バグダードは東西貿易路の結節点にあり、しかも肥沃なイラク平野の中心に位置していたから、建設後のバグダードは、短期間のうちに目覚ましい発展ぶりを示した。市街地はティグリス川の両岸に拡大し、各地の市場(スーク)はイスラーム世界の特産物の他に、中国の絹織物・陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷などで満ちあふれた。経済の発展につれて、バグダードには文人・学者・技術者などが数多く来住し、人口100万を擁するこの国際都市を中心にして、やがてイスラームの高度な都市文明が開花する。
イスラーム教徒の商人
イスラーム世界では、イスラーム教徒(ムスリム)・キリスト教徒・ユダヤ教徒などの商人が活躍したが、中心はやはりムスリム商人であった。アッバース朝の成立前後から、アラブ人やイラン人などのムスリム商人は、アフリカ・インド・東南アジア・中国へと進出して、これらの地にイスラーム文化を伝えると同時に、金・奴隷・香辛料・香料・陶磁器・絹織物などの奢侈品をイスラーム世界にもたらした。多品目の商品を扱うこれらの大商人に対して、都市の市場商人は単品の品物を扱う小商人であり、職人とともに都市社会の中間層を形成した。
アッバース朝時代には、イラン人が要職に抜擢され、ムスリムの平等を旨とするイスラーム法が制定されたことによって、アラブ人の特権はしだいに失われた。イスラーム教徒に改宗すれば、非アラブ人でも人頭税が課せられることはなくなり、またたとえアラブ人であっても、耕作に従事する場合には地租が課せられるようになったのである。この課税方法は、のちのイスラーム諸王朝においても等しく適用される原則となった。公用語はいぜんとしてアラビア語であり、著作活動もすべてアラビア語によっておこなわれた。
しかし周辺の地域からイラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人などを積極的に受け入れ、各民族の特徴をいかしてこれらの人材を活用したことがイスラーム社会の特徴である。カリフの政治はイスラーム法に基づいて行われたが、法の解釈にあたるウラマー(知識人)もまた、さまざまな民族の出身者によって構成されるようになっていったのである。
ザンジュの乱 (869)
アッバース朝時代になると、カリフ・官僚・商人などによる私領地(ダイア)経営がさかんとなり、とくに南イラクではアフリカ出身の黒人奴隷(ザンジュ)を用いて土地の改良事業がおこなわれた。劣悪な生活条件に苦しむザンジュは、869年にアラブ人の野心家に扇動されて大規模な反乱を起こし、10年余りにわたって南イラク一帯を支配した。この反乱によってカリフの権威は地に落ち、アッバース朝の国家体制は大きく揺らいだ。