ナポレオン帝国の崩壊
ワーテルローの戦いに敗れたナポレオンは、イギリスに南大西洋の孤島セントヘレナへ送られ、1821年にその生を終えた。時をへてナポレオン伝説が生まれ、人々は彼の専制や失敗を忘れ、その栄光と業績のみを思い出し、虚栄と野心の独裁者は「よき皇帝」「革命の真の愛国者」に姿を変えた。1840年、イギリスはナポレオンの遺体をパリに帰すことを認め、今日、その遺体はルイ14世がたてた廃兵院のドームに安置されている。
ナポレオン帝国の崩壊
ロシアのアレクサンドル1世はナポレオン1世の大陸支配を警戒と不信の目で眺めていた。大陸封鎖はロシアの穀物とイギリスの生活必需品との貿易をとめ、ロシアの農業経営を破綻させるものであった。ロシアは1812年大陸封鎖を破り、イギリスとの貿易を再開した。大陸封鎖がイギリスに打撃を与える唯一の手段と考えていたナポレオンは、ロシアの行為を無視できなかった。懲罰のため各地から60万の兵力が集められ、大陸軍が編成された。
大陸軍は1812年夏ロシアへの侵入を開始した。しかし、被征服地から徴収された兵士は、ナポレオンに対する忠誠心、フランス帝国への愛国心をもつものではなかった。
ナポレオンの大陸軍に対し、ロシア軍は戦いをさけ、ゆっくり後退を続け、ナポレオン軍をロシア本土の奥深くひきこんだ。退却に際し、ロシア軍は焦土作戦をとり、穀物や侵入軍が必要とするものを焼きはらった。1812年9月半ば、ナポレオン軍はモスクワを占領した。後退にあたってロシア軍は放火し、建物を破壊した。侵入軍は宿泊所の不足に苦しめられた。冬の到来と、長い補給路が危険にさらされることから、ナポレオンは撤退を決意した。ナポレオンのモスクワからの撤退は、軍事史上の悲劇のひとつとなった。多くの兵士がコサックの追撃と、ロシア平原の冬に倒れた。ロシアの国境までたどりついたのは、侵入した軍隊の5分の1であった。ナポレオンは軍をおき去りにし、彼の帝国を守る新しい軍隊を編成するため急ぎフランスにもどった。ロシア軍は撤退するフランス軍を追ってナポレオンの帝国に侵入した。
ナポレオンの同盟者でもあったヨーロッパの君主たちはナポレオンから離れた。イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、新しい対仏大同盟が結成された。ナポレオンは敵が結束する前にたたくという彼の得意の戦略を用いようとしたが、今度は遅きに失した。1813年10月ナポレオン軍と新しい同盟軍はライプチヒ Leipzig で対戦し、同盟軍がフランス軍を決定的に撃ち破った(諸国民の戦い)。このためナポレオンはフランスに後退した。フランスに侵入した同盟軍に対し、ナポレオンは何度か優れた戦術で戦った。しかし敗色はこく、1814年4月同盟軍はパリに入城した。彼は息子に譲位しようとしたが、認められなかった。同盟軍は彼に年金を与え、エルバ島に隠退させた。ルイ16世の弟がフランスに帰り、ルイ18世 Louis XVIII (位1814〜24)として即位し、ブルボン朝の王政が復活した(王政復古)。
ルイ18世(フランス王)は、その反動的な態度で国民の間に多くの敵をつくりだした。また、戦後の平和の秩序を討議するためウィーンに集まった列国の代表の利害は対立し、議事はまとまらなかった(ウィーン会議)。こうした情勢を知ったナポレオンはエルバ島を脱出して、1815年3月フランス南部に上陸し、支持者を加え北上した。彼を捕らえるため派遣された軍も「皇帝」に従った。ルイ18世はベルギーに逃亡し、パリに入ったナポレオンは再び皇帝の地位についた。「百日天下」の始まりである。ナポレオンは時をかせぎ、軍隊を再編成し、戦争に備えた。諸国は第5回対仏大同盟(数え方によっては第7回)を結成して、復活したナポレオンに対決した。1815年ベルギーのブリュッセルの南、ワーテルロー Waterloo で、ナポレオンはイギリスのウェリントン Wellington (1769〜1852)(アーサー・ウェルズリー(初代ウェリントン公爵)、プロイセンのブリュッヘル(ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル)と戦って敗れた(ワーテルローの戦い)。復活した皇帝の支配は短期間で終わった。
投降して来たナポレオンを、イギリスは南大西洋の孤島セントヘレナ St.Helena に送った。ナポレオンはここで1821年にその生を終えた。時をへてナポレオン伝説が生まれた。人々は彼の専制や失敗を忘れ、その栄光と業績のみを思い出した。虚栄と野心の独裁者は「よき皇帝」「革命の真の愛国者」に姿を変えた。1840年、イギリスはナポレオンの遺体をパリに帰すことを認めた。今日、その遺体はルイ14世(フランス王)がたてた廃兵院のドームに安置されている。
詩人ナポレオン
ナポレオンは軍人であると同時に詩人としてのオ能に恵まれていた。レトリックを駆使した彼の言葉や独創的な布告がそれを示す。アウステルリッツの戦いで彼が兵士に与えた言葉をみよう。
兵士に告ぐ「兵士よ、私は諸君に満足である。諸君はアウステルリッツの戦闘において、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光によって飾った。ロシア皇帝とオーストリア皇帝の指揮する10万の軍は4時間たらずしてあるいは遮断されあるいは四散させられた。….. ロシア近衛兵の40本の軍旗、120門の大砲、20人の将軍、3万以上の捕虜が、永久に有名なこの日の成果である。….. 兵士よ、われわれの祖国の幸福と繁栄の確保に必要ないっさいのことが達成された暁には私は諸君をフランスにつれもどるであろう。….. そして、 諸君は〈私はアウステルリッツの戦闘に加わっていた〉といいさ
えすれば、こういう答えをうけるであろう、〈ああこの人は勇士だ!〉と」
思想家としてのナポレオン
ナポレオンは鋭い人間観察家であり、洞察力に富む風刺家でもあった。ラ=ロシュフーコを思わせる簡潔な言葉で表現されたその箴言や考察を以下に紹介する。
- 軍隊とは服従する国民である。
- 平和は、いろいろな国の真の利害一ーすべての国にとって名誉ある利害一ーに基礎をおいた、よくよく熟慮されたひとつのシステムの結果でなければならない。降伏でもありえず、威嚇の結果でもありえない。
- 人間は数字のようなものである。その位置によってのみ価値を獲得する。
- 人はその制服どおりの人間になる。
- 愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。
- 民衆はその意に反してこれを救わなければならない。
- どんな生涯においても、栄光はその最後にしかない。
皇后ジョゼフィーヌ
ジョゼフィーヌは西インド諸島のマルティニク島の農園主の娘。パリにでて結婚し、ボ一アルネ子爵夫人となった。社交界ではおしゃぺりで無教養な女と思われていたが、子爵との間には息子ウジェーヌ、娘オルタンスが生まれた。しかし革命中、子爵は反革命分子として遠捕、処刑された。テルミドールのクーテタ後、彼女は総裁パラスの愛人となったが、ジョゼフィーヌに飽きたバラスによりナポレオンに紹介された。ナポレオンはジョゼフィーヌの魅力に、ジョゼフィーヌは7歳年下のナポレオンの名声にひかれ結婚した。マルメゾンの館で浪費に励んだジョゼフィーヌは貞淑な妻とはいえなかったが、ナポレオンは彼女を愛していた。彼女の娘のオルタンスはナボレオンの弟ルイと結婚した。オルタンスの息子はのちのナポレオン3世である。
皇帝となったナボレオンは1809年、世つぎをえるためと、ヨーロッパの伝統的権威と結びつくため、ジョゼフィーヌと離婚し、翌10年ハプスブルク家のマリ=ルイズを后に迎えた。ジョゼフィーヌは十分泣きはらしたのち、皇后の称号と莫大な年金、マルメゾンの宮殿をあてがわれて身をひいた。ジョゼフィーヌは、ナポレオンがエルバ島に流されていた間、マルメゾンで死んだ。この報せを聞いたナボレオンは数日間ふさぎこんでいたという。