古ゲルマン社会
原始ゲルマン社会は、さまざまなキヴィタス(部族集団)にわかれ、最高機関として民会が設置された。次第に人口が増加し、耕地が不足したため、ローマ帝国領内に侵入していった。紀元後9年にはトイトブルクの戦いでローマ帝国軍を破った。
古ゲルマン社会
ヨーロッパの古代と中世を画する出来事のひとつに、ゲルマン人の大移動とそれに伴う古代地中海世界の崩壊がある。
ゲルマン人は、バルト海沿岸やユトランド半島の森林・沼沢地隊を現住地としていたが、次第に南下して先住のケルト人を駆逐し、紀元前後の頃にはライン・ドナウ両河を界にローマ帝国と接触するようになった。大移動以前のゲルマン人の社会を古ゲルマン社会ないし原始ゲルマン社会という。
その実態を知る手がかりとして重要なものに、ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』(紀元前1世紀半ば)とタキトゥスの『ゲルマニア』(1世紀末)がある。
それらによると、ゲルマン人の経済生活は、主として牧畜と狩猟により成り立っていたと考えられる。大麦・燕麦などの穀物やエンドウ・カブラなどの野菜も作られていたが、栽培方法はかなり粗放的で、農業があくまで副次的なものにとどまっていたことを示している。牧畜を主としつつも、定着して小集落を形成していたゲルマン人は、全体として約50の部族集団(キヴィタス)に分かれていた。
このキヴィタスは今日のような明確な領地をもつ国家ではなく、一種の戦士団であった。その社会にはすでに貴族・平民(自由民)・奴隷の身分別階層があり、各キヴィタスは貴族の中から選出された一人の王または数人の首長をいただいていた。最高機関としての民会は、貴族と平民の成人男性全員、つまり戦士団により構成され、政治・軍事・裁判などに関わる決定をおこなった。議決は全会一致を建前としたが、実質的には貴族主導の決定がなされた。また、有力貴族は貴族・平民の子弟からなる従士を私兵として多数かかえていた。
ゲルマン社会では、農業の進歩とともに人口が増大し、耕地が不足するようになるとしだいにローマ帝国領内に移住するものが現れた。その多くは小規模の平和的な移住であったが、中には武力を持って部族単位で侵入し、ローマ軍と衝突することもあった。はやくも9年に、ケルスキ族はウァルス将軍率いるローマ軍をトイトブルク森の戦いで破っている。
こうしたゲルマン人の動きに対し、1世紀末のドミティアヌス(ローマ皇帝)はライン・ドナウ両河の間に長城(リーメス limes)を築いて防戦に努めた。
2世紀後半のマルクス=アウレリウス=アントニヌス(ローマ皇帝)は、マルコマニー族をはじめとするゲルマン人の侵入に対抗するため、別のゲルマン諸部族の応援を求め、その代償としてドナウ流域の帝国領内への安住を許可することになった。こうして大移動の前からゲルマン人とローマ人との接触はさかんにおこなわれた。平和的に移住したゲルマン人の多くは、ローマ軍傭兵・家内奴隷・コロヌス(農奴的小作人)・手工業者・下級官吏などとしてローマ社会に同化していった。とくに傭兵になるものは多く、帝政末期にはローマ軍のほとんどがゲルマン人傭兵で占められるほどになり、帝国のゲルマン化を進めることにもなった。
古ゲルマンの生活
小事は首長たちが、大事は人民全体が協議する。しかし、その決定権が人民に属するような問題も、あらかじめ首長たちの元で熟慮されるという風にしてである。予期しない突然の事件が起こらない限り、彼らは一定の時期、すなわち新月あるいは満月の頃に集会する。・・・集まった彼らがよしと思った時、彼らは武装のまま着席する。そしてこの期間を通じて統制の権を持っている神官たちによって沈黙が命ぜられる。やがて王あるいは首長が、その年齢、身分、武勲、弁舌の才に応じて発言し、命令的な権力よりは説得的な権威によって傾聴される。人々は、もしその意見に満足しない時は、ざわめきによって拒否する。もし気に入ればフラメア(投槍)を打ち合わす。武器をもって賞賛することは、最も名誉ある賛成の仕方である。