漢の興起
秦末の反乱で多くのものが天下統一をめざし、項羽と劉邦が実力者として残った。劉邦は度量が広く、人材の登用が上手で、個々人の能力を十分発揮させたが、項羽は度量がせまく、激情家で権力におぼれるところがあったといわれる。この2人をめぐる抗争は、「鴻門の会」や、項羽の最後を記した「四面楚歌」の場面などで大変有名で、しばしば漢文の教科書などに取り上げられている。
漢の興起
秦末におこった反乱勢力のなかで、最後まで残ったのは、沛県の庶民出身の劉邦(紀元前247〜紀元前195)と、楚の貴族出身の項羽(紀元前233〜紀元前202)である。秦を滅ぼしたのち両者は激しく争い、ついに劉邦は垓下の戦いで項羽を破って中国を統一して皇帝の位につき(高祖 位紀元前202〜紀元前195)、秦の都咸陽の近くに新都長安を建設し、漢王朝(紀元前202〜紀元後8年)をたてた(前漢)。
高祖(漢)は、秦の制度の多くを受け継いだが、秦が法律に基づいて厳しい政治をおこない、旧諸侯や民衆などの反発を招いて滅亡したことをふまえ、急激な中央集権化をさけて国内をまとめた。また租税・力役を軽減して民衆の生活の安定に努めた。都の長安を中心とする地域は直轄地として郡県制を行い、官吏を派遣して支配したが、東方などの遠隔地には劉氏一族や功臣を諸侯として領土を与える封建制を採用した。これが郡県制と封建制を併用した郡国制である。しかしながら、劉邦と続く呂后(高祖の皇后)の時代に功臣出身の異姓の諸侯はしだいに滅ぼされていき、諸侯は同姓(劉氏)のものに限られるようになった。
一方、北方のモンゴル高原では、匈奴が冒頓単于のもとで強大になっていた。劉邦は侵入してきた匈奴と白登山(山西省)で戦って破れ、毎年多額の物品を贈るという屈辱的な関係を強いられることになった(白登山の戦い)。
やがて漢では劉氏一族の諸侯の勢力がしだいに強まり、中央政府に反抗的になった。そこで中央政府は諸侯を抑制する政策を推し進め、第6代の景帝(漢)のとき、諸侯の領土の削減をはかった。その結果、ついに紀元前154年、呉王を中心とする劉氏一族の7人の諸侯が反乱をおこした(呉楚七国の乱)。反乱はわずか3ヶ月で鎮圧され、そののち諸侯は都に移され諸国には中央から官吏を任命するなどして諸侯の権力は弱められることになり、次の武帝(漢)の時代には、郡国制とはいうものの実質は郡県制と変わらない中央集権体制が確立した。
項羽と劉邦
秦末の反乱では多くのものが天下統一をめざしたが、やがて項羽と劉邦の2人が実力者として残った。項羽は楚の名門の家に生まれ、衆にぬきんでた力をもっていた。一方、劉邦は沛の庶民出身で、亭長(警察署長)を勤めたことがあった。劉邦は度量が広く、人材の登用が上手で、個々人の能力を十分発揮させたが、項羽は度量がせまく、激情家で権力におぼれるところがあったといわれる。2人は連合して秦を滅ぼすが、その後、劉邦はたくみなかけひきで項羽を破って自殺させ、天下を統一した。この2人をめぐる抗争は、「鴻門の会」や、項羽の最後を記した「四面楚歌」の場面などで大変有名で、しばしば漢文の教科書などに取り上げられている。
この時代が背景の作品
項羽と劉邦 King’s War
二世皇帝となった胡亥は皇族を殺し、始皇帝の治世を支えた重臣を粛清。朝廷を混乱に陥れ、始皇帝陵や阿房宮の完成を急がせた。その圧政に耐えきれなくなった民衆は次々に蜂起する。秦に滅ぼされた楚国の将軍の孫である24歳の項羽と、沛県の田舎町で亭長を務める46歳の劉邦も立ちあがった。