漢代の文化
- 儒学:儒教の国教化・訓詁学の発達
- 歴史書:『史記』・『漢書』
- 宗教:仏教・太平道・五斗米道
- 美術工芸:製紙法・絹織物・漆器・銅鏡
- 学問:『説文解字』
- 文字:甲骨文字(殷)→金石文(周)→篆書(秦)→隷書(前漢)→楷書(後漢末)
漢代の文化
漢代の文化
儒学 | 儒教の国教化 | 武帝(漢)時代、董仲舒の献策により五経博士を設置。国家の統治理念となる。 |
訓詁学の発達 | 古書の復元、経典や字句の注釈に力を注ぎ、教義の理念的発展はなかった。馬融や鄭玄(後漢)によって大成。 | |
歴史書 | 『史記』(司馬遷) | 全130巻、本紀・表・書・世家・列伝からなる紀伝体。伝説上の黄帝から武帝(漢)までの通史。その後の正史の模範となる。 |
『漢書』(班固) | 全120巻、紀伝体による前漢の正史。 | |
宗教 | 仏教の伝来 | 前漢末(紀元前後)、西域より伝来。 |
太平道 | 張角が指導。呪文や祈祷による病気を治療。黄巾の乱の主力。道鏡の源流となる。河北が中心。 | |
五斗米道 | 張遼・張魯が指導。祈祷による病気治療をおこない、謝礼に米を5斗はらう。道鏡の源流となる。四川が中心。 | |
美術工芸 | 製紙法 | 後漢の宦官・蔡倫が改良。木簡や竹簡に代わり普及。のちにイスラーム圏を経てヨーロッパに伝播。 |
美術・工芸 | 絹織物・漆器・銅鏡 | |
学問 | 『説文解字』 | 許慎(後漢)が編纂。9353字の漢字を解説した最古の字書。 |
文字 | 文字 | 甲骨文字(殷)→金石文(周)→篆書(秦)→隷書(前漢)→楷書(後漢末) |
漢代約400年にわたる政治的統一は、春秋・戦国時代に各地で多彩な発展をとげた中国文化を全国的に統合するという役割を果たした。
儒学の成立
前漢の初めは、法家や道家の思想が有力であったが、武帝(漢)のとき、董仲舒の提案により、礼と徳を重んじる儒学が統一国家を支える原理としてふさわしいということから官学とされた。中央の太学には五経博士がおかれて五経が講義され、儒学的教養をもって官吏の養成がはかられた。
ついで後漢の光武帝(漢)の保護・奨励により儒学は国家の統治理念として他の学問を圧倒したばかりか、日常生活の規範ともなって定着した。このような儒教の国教化は、その教説の固定化を招き、学者はもっぱら秦代の焚書で失われた古書の復元や経典の注釈に力を注ぐ訓詁に努め、訓詁学は後漢の馬融や鄭玄らによって大成された。
一方で陰陽五行の思想も広く信じられ、王朝の交替の解釈に用いられた。また、後漢の許慎は古典を読むために必要な『説文解字』という字典をつくった(100頃)。そのほか、文字も秦代の篆書(小篆)にかわって筆写に便利な隷書という今日の漢字と大差ない書体が使用されるようになった。
歴史書の編纂
漢代には、統一された歴史的世界が形成されたことにともない、すぐれた歴史書が編纂された。なかでも前漢の武帝(漢)時代に司馬遷が編んだ『史記』130巻と、後漢の和帝(漢)時代に班固の編んだ『漢書』120巻は、いずれも紀伝体で書かれていて、その後の正史(各王朝についての公式の履歴書)の模範とされた。
司馬遷と『史記』
司馬遷は、紀元前98年匈奴遠征に出て捕虜になった将軍李陵の弁護をしたために、武帝の怒りをかい、宮刑(去勢される刑)に処せられた。そののち、司馬遷は中書令として武帝に仕えるかたわら、発憤して『史記』を完成させたといわれている。『史記』は全130巻、本紀(歴代帝王の年代記)、表(内容別の年表)、書(制度・文物の変遷)、世家(諸侯の国別の歴史)、列伝(有名な個人の伝記)からなり、伝説脳の帝王である黄帝から武帝までの通史である。
道教の源流
社会不安が増大し疫病が流行した後漢末ころ(2世紀後半)、張角が指導した太平道と、張遼・張魯が指導した五斗米道などの宗教結社が生まれ、生活に苦しむ農民の心をとらえた。ともに呪文や祈祷などで病気を治療することを主とし、太平道は河北を中心に、五斗米道は四川を中心に広まった。このうち太平道は黄巾の乱の主力となった。いずれも後世、中国社会に流行した道教の源流となった。
美術・工芸
宮廷を始め豪族・富商などの需要に応じて美術・工芸の分野でも発達を見た。とりわけ絹織物・漆器・銅鏡などは、意匠もすっきりとしたのびやかさをもち、製作技術も大きく進歩した。これらの遺物は、中国各地や朝鮮の楽浪郡の遺跡、モンゴル高原の匈奴の遺跡であるノイン・ウラなどから出土している。
また、後漢の和帝のころ、宦官の蔡倫は、樹皮・麻くず・ぼろ布などを利用して製紙法を開発したといわれている。このことによって、それまで書写用に使用されてきた木簡・竹簡(木や竹の札)や帛(絹)は、重くて不便で、高価であったりしたため、4世紀前半ころまでにはしだいに用いられなくなっていった。紙の製法は、中国における文化の発達に大きな貢献をしたばかりでなく、のちにイスラーム圏をへてヨーロッパにまで伝わり、世界の文化史のうえでも重大な意義を持っている。
漢代の文化が登場する作品
項羽と劉邦 King’s War
始皇帝の死後、二世皇帝となった胡亥は皇族を殺し、始皇帝の治世を支えた重臣を粛清。朝廷を混乱に陥れ、始皇帝陵や阿房宮の完成を急がせた。その圧政に耐えきれなくなった民衆は次々に蜂起する。
秦に滅ぼされた楚国の将軍の孫である24歳の項羽と、沛県の田舎町で亭長を務める46歳の劉邦も立ちあがった。