古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」
古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」©NHK

古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」 登場人物とあらすじ

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古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」
NHK大阪放送局制作による「古代史ドラマスペシャル」として、2010年にNHKで放送された歴史ドラマ。
日本が国家としてのかたちを成し始めた奈良時代、唐から帰国し、理想の国づくりを目指して突き進んだ吉備真備、大仏造立を命じた父・聖武天皇の背中を見つめ続けた阿倍内親王(後の孝謙天皇)、そして2人が権勢を競い合った最大のライバル・藤原仲麻呂。
毎年のように干ばつに襲われ、飢饉、餓死、天然痘、大地震。奈良東大寺盧舎那仏像とうだいじるしゃなぶつぞうはどのような背景のもと、どのような理由で、どのように建立されたのか。

古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」

物語

唐で類稀な学才を認められた遣唐使・下道真備しもつみちのまきび(吉岡秀隆)は、天平6年(734年)、東シナ海の荒波を乗り越えて、17年振りに日本に帰国、平城京の片隅で待つ母、妹と涙の再会を果たす。
まもなく真備は、招かれた宮中の席で、17歳の美しい娘・阿倍内親王(石原さとみ)と出会う。内親王は問う。「唐の学問は人の心を変えることができるのか?」と。やがて真備は東宮学士として内親王の教育係に抜擢される。以来二人は固い師弟愛に結ばれ、未だ若く脆弱なこの国の中で、変転万化の人生を歩むことになるのだった。

737年、平城京の権力構造を大きく塗り替える出来事が起こる。日本中を襲った天然痘で、それまで政治に大きな影響を及ぼしていた藤原の4兄弟が相次いで死んだのだ。参議だった橘諸兄はたちまち右大臣に昇進、それに伴い真備と玄昉はますます重用される。逆に藤原一族は一気に没落、左遷された藤原広嗣は真備と玄昉を名指しで批判して大宰府で兵を挙げた(藤原広嗣の乱)。

藤原氏による反乱を恐れた聖武天皇は東国へ行幸、その途中の寺で見た盧舎那仏に魅せられ、大仏の建立を思い描く。その頃真備は都で兵を挙げる勢いの藤原仲麻呂(高橋克典)と対峙、今は戦をすべきでないと決死の覚悟で説き伏せる。
まもなく広嗣の乱は政府軍により鎮圧され、都は恭仁京に移された。
聖武天皇は世の混乱が増すごとに大仏建立への思いを募らせる。真備は国が疲弊している今、大仏を造るべきではないと主張するが、僧・行基の不思議な魅力に出会い、聖武天皇との間を取り持つ。「国家の名の下にではなく、庶民の手によって大仏を造ってもらいたい」聖武天皇の大仏建立に抱く思いを聞いた行基は大仏造りの先頭に立つ事を受け入れる。
その間、藤原氏による律令国家の復権を目論む藤原仲麻呂は、次の皇太子候補、安積親王の命を狙っていた。その後、光明皇后に取り入って大出世を果たした仲麻呂は、孝謙天皇を傀儡として絶大な権力を握り、遂には真備を唐に追いやる。そうした激動の平城京で、9年の歳月をかけて造られた大仏の開眼法要が盛大に行われる。
翌年、真備はある決意をもって、唐から奇跡の生還を果たす。
そして764年、遂に仲麻呂追討の火の手が上がるのだった…。

参考 Wikipedia

登場人物

古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」
聖武天皇と藤原氏の関係図 ©世界の歴史まっぷ

天皇家

聖武天皇

聖武天皇は、第45代天皇。在位:724年〜749年
演:國村隼

光明皇后

光明皇后(光明子)は、藤原不比等と県犬養橘三千代の娘。聖武天皇の皇太子時代に結婚。阿倍内親王の母。長屋王の変後、初めて王族以外から立后された。
演:浅野温子

阿倍内親王(のちの孝謙天皇)

孝謙天皇は、718年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれる。皇太子でありながら宮中を抜け出し、お忍びで市場見物をするなど、生来活発な性格。真備の教育を受けるようになって世の中の様々な事を知るようになり、やがて真備と固い師弟愛で結ばれるようになる。飢饉の蔓延、大仏の建立、藤原氏による反乱など時代が大きく動いていく中、32歳の若さで天皇に即位する。
演:石原さとみ

安積親王

安積親王あさかしんのうは、聖武天皇の第二皇子。母は県犬養広刀自。
演:中村凛太郎

遣唐使

多治比真人広成

多治比真人広成たじひのまひとひろなりは、聖武天皇の即位後まもなく従四位下に叙せられる。天平4年(732年)兄の多治比県守(第9次押使)に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられ、翌天平5年(733年)4月に難波津から唐に向けて出発、天平6年(734年)11月に唐から種子島に無事帰着する。帰国翌年の天平7年(735年)遣唐大使の功労により二階昇進して正四位上に叙せられた。
天平9年(737年)兄の中納言・多治比県守と当時政権を握っていた藤原四兄弟が相次いで没すると、8月に参議、9月には従三位・中納言に叙任され、知太政官事・鈴鹿王と大納言・橘諸兄に次いで一躍太政官の第三位の席次に昇る。天平11年(739年)4月7日薨去。最終官位は中納言従三位兼式部卿。
演:高井高陽

吉備真備(下道真備)

695年、警固番人の子として生まれる。22歳のとき第八次遣唐使として唐に渡り、17年間勉学に努めたのち帰国。日本では唐で学んできた学問や知識を教えながら暮らす事を望んでいたが、その類稀な学才を聖武天皇、光明皇后などに認められ、はからずも時の政治の中枢に重用されていく。頭脳明晰ゆえ理に適わないものは信じない真備だが、やがて聖武天皇から大仏を建立したいという相談を受けて…。鋭い先見性と揺るぎない信念で、最後は右大臣まで登りつめた才人。
演:吉岡秀隆

玄昉

養老元年(717年)遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。約20年後の天平7年(735年)次回の遣唐使に随い経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した。
天平9年(737年)僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。
吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、失敗したものの天平12年(740年)には藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌天平18年(746年)任地で没した。
演:市川亀治郎

朝廷(旧貴族)

橘諸兄(葛城王)

橘諸兄は、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。天然痘の流行によって右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去すると大納言となり、天平10年(738年)には正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となる。藤原広嗣の乱が起こり、聖武天皇は伊勢国に行幸する。乱平定後も平城京に戻らず、橘諸兄が自らの本拠地にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。天平15年(743年)従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年(749年)4月にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。
演:草刈正雄

大伴牛養

大伴牛養おおとものうしかいは、奈良時代の公卿。名は牛飼とも記される。常道頭・大伴吹負の子。
演:谷口高史

大伴家持

大伴家持おおとものやかもちは、奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。
演:中山麻聖

藤原氏

藤原宮子

藤原宮子ふじわらのみやこは、文武天皇の夫人。藤原不比等の長女。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。
大宝元年(701年)、首皇子(後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。文武や父不比等等肉親の死を経て、723年に従二位に叙され、首皇子が即位した翌724年には正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、737年にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面した。
演:江波杏子

藤原武智麻呂

藤原武智麻呂ふじわらのむちまろは、藤原不比等の長男。藤原4兄弟。藤原南家の祖。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。藤原仲麻呂の父。
演:苅谷俊介

藤原房前

藤原房前ふじわらのふささきは、藤原不比等の次男。藤原4兄弟。藤原北家の祖。
演:門田裕

藤原宇合

藤原宇合ふじわらのうまかいは、藤原不比等の三男。藤原4兄弟。藤原式家の祖。
演:井之上チャル

藤原麻呂

藤原麻呂ふじわらのまろは、藤原不比等の四男。藤原4兄弟。藤原京家の祖。
演:田村ツトム

藤原広嗣

藤原広嗣ふじわらのひろつぐは、藤原宇合の長男。朝廷の政治を担っていた父を含む藤原4兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去すると、橘諸兄と、唐から帰国した吉備真備、玄昉が重用され藤原氏の勢力は大きく後退し、広嗣は大宰府にに左遷されたことに不満を抱き、藤原広嗣の乱をおこす。聖武天皇は平城京を出て恭仁京に遷都した。
演:波岡一喜

藤原仲麻呂

藤原仲麻呂は、藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の次男。祖父・藤原不比等がつくった「律令」こそが国を正しく導くという信念を持っている。737年藤原4氏が疫病で次々と亡くなり、藤原一族が没落する中にあって、藤原の再興を目論みはじめる。真備と一目会うなり、その才能に惚れこみ、律令による国づくりには真備の力がどうしても必要だとして、真備を自分の側に取り込もうとはたらきかけるが、国に対する考え方の違いから、やがて大きく対立していくこととなる。
演:高橋克典

藤原乙麻呂

藤原乙麻呂ふじわらのおとまろは、藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の三男。
演:浜口望海

藤原巨勢麻呂

藤原巨勢麻呂ふじわらのこせまろは、藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の四男。
演:南圭介

藤原久須麻呂

藤原久須麻呂ふじわらのくすまろは、藤原南家、太師・藤原仲麻呂の三男。
演:伊藤聡

行基

行基は、行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
演:笈田ヨシ

その他

吉備由利

吉備由利きびのゆりは、本作では吉備真備の妹。藤原仲麻呂の乱後、兄の吉備真備とともに称徳天皇に信頼され、側近として典蔵を務め、神護景雲2年(768年)10月13日、従三位に昇進した。神護景雲4年(770年)、称徳天皇が病臥すると、同年8月に天皇が没するまでただ一人寝所に出入りを許され、群臣との取り次ぎを務めたという。この間、勅旨によって藤原永手と真備に軍事権が委ねられている。後に尚蔵となり、宝亀5年薨去した。
演:内山理名

あらすじ

当時の日本は、人口500万人足らずの小国であった。毎年のように襲う干ばつ、飢饉、そして大地震などが民を苦しめ、国は疲弊していた。
大陸では唐が君臨し、日本は国家の確立を目指し唐の文化を学ぶため、遣唐使を送った。

遣唐使は、大使・副使以下、留学生・学問僧、船員などからなり、多いときには500人にも及ぶ人々が、4隻の船に分乗して東シナ海を渡った。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟な段階であり、途中の海上で遭難することが多く、無事に帰国することは奇跡に近かった。

天平7年 735年、下道真備(吉備真備)と玄昉は17年ぶりに唐から帰国すると、先の大地震で家の屋根は傾き、塀は崩れ、農民は貧しく疲弊していた。

奈良時代(710年〜794年)に起きた大地震
  • 715年6月30日・7月1日(7月4・5日)(和銅8年5月25日・26日) 遠江国地震 – M 6.5〜7.5、三河国・ 遠江国(静岡・愛知)で地震。正倉47棟が倒壊。天竜川が塞き止められ、数十日後に決壊して洪水(『続日本紀』)。
  • 734年5月14日(5月18日)(天平6年4月7日) 畿内七道地震 – M 7、死者多数(『続日本紀』)。生駒断層直下型。誉田山古墳一部崩壊。
  • 745年6月1日(6月5日)(天平17年4月27日) 天平地震 – M 7.9。岐阜県美濃地方で地震。天皇平城京に復都(『続日本紀』)。愛知県〜岐阜県を南北に走る養老断層の1つ前の活動(次が1586年の天正地震)とする説がある。
  • 762年6月5日(6月9日)(天平宝字6年5月9日) 美濃・飛騨・信濃(岐阜・長野)で地震(『続日本紀』) – M 7以上。糸魚川静岡構造線活断層系で発生したM 7 3⁄4〜8 1⁄4と同じものである可能性がある。
  • 797年(延暦16年)8月14日、南海トラフ地震があった可能性が保立道久により指摘されている。 (800年6月に富士山が噴火)

参考 Wikipedia

10万人の民が暮らす平城京の奥まったところにある平城宮(朝廷)の入り口、朱雀門の近くに館を構える葛城王(天平4年(732年) 1月20日:従三位)に招かれ、唐から持ち帰った方響ほうきょうを披露する。

方響ほうきょうは、中国の伝統的な体鳴楽器である。編磬と同様の台に音高の異なる複数の長方形の鉄板を並べてぶらさげ、バチで叩くことによって旋律を奏でることができる。現代の中国ではほとんど使われていない。日本にも伝播したが滅んだ。

天平7年 735年3月 遣唐大使 多治比広成たじひのひろなり 帰国した遣唐使一行大王おおきみ聖武天皇)に拝謁し、帰国の挨拶を行う。
平城宮大極殿 大王は使節たちの苦労を労い、それぞれに新しい職と身分、屋敷などを与えた。
このころの朝廷は右大臣・藤原武智麻呂、藤原房前をはじめとする藤原氏が掌握し、それを不満に思う葛城王はじめとする旧貴族らとの溝が深まっていた。

龍門石窟
玄昉が唐で見た龍門石窟の盧舎那仏 ©Public Domain

玄昉が唐で見た山一面が仏像だったと熱く盧舎那仏の話をする。真備は玄昉を葛城王に紹介する。宮子の病を

ここ数年の干ばつ続きで国は大飢饉に陥っていた。税を払えない農民は村から逃げ出し、京へ流れ込み、むへとして寺や市場などで働き、その過酷な労働に耐えきれず再び浮浪となり犯罪に手を染めるものが激増した。朝廷はこうした放浪者を厳しく取り締まった。

天平9年 737年 春 都にも天然痘が流行し、藤原4兄弟が相次いで命を落とし、朝廷の最高権力出会った藤原一門が崩壊する。
引続く干ばつで餓死するものが後を絶たない中、日食がおこり、不穏な気配が辺りを漂い、混乱のさなか、藤原氏に代わり大后の兄である葛城王改め橘諸兄を大納言に任命 古い貴族が息を吹き返す。

行基 近隣諸国の布教活動の傍ら病に苦しむ人々のために布施屋ふせやと呼ばれる治療所を開き 水不足の村には水を引き、荒れ狂う川には橋をかけ、その名は平城京にも広く知れ渡っていた。一方玄昉は俗に溺れ野望に満ちていた。

天平10年 738年 阿倍野内親王が皇太子 21歳 橘諸兄は右大臣となる。
天平12年 740年 九州 大宰府付近 橘諸兄によって九州大宰府に左遷された藤原広嗣が現状を不満とし大宰府の兵を率いて反乱を起こす(藤原広嗣の乱)。
九州の藤原一門を連ねる豪族たちががそれに加わり朝廷を揺るがす。平城京では反乱軍が攻め込むかもしれないと民衆は恐れ京は混乱する。
右衛士督うえじのかみとなっていた真備は、天皇家の系図をみて、光明皇后の立場なら、異父兄橘諸兄より、藤原不比等の血を引く甥の
藤原広嗣、藤原仲麻呂ら藤原氏に思入れがあると察し、聖武天皇に、京でも乱がおこる危険があることを告げる。
平城京は藤原一門によってつくられた都。都そのものが乱を起こしましょう。藤原一門が根を張ったこの都を捨て、朝廷を他へ移せば乱は意味を失うため、乱を防ぐ唯一の策だと大王が大后とともにこの都を出ることを勧める。

聖武天皇「平城京で大きな盧舎那仏をつくれば民心は一つにまとまるのではないか仏の前では藤原も右大臣もない、争いは無意味だと皆が悟ないだろうか。」
真備「かつての百済、高句麗、皆見事な仏像を作った国だが、いずれも戦で滅んだ。私は、理にかなわぬ道理には同意いたしかねます。」

宮中の騒ぎを取り締まる右衛士督・真備は 藤原仲麻呂に、藤原不比等殿がなにゆえにこの国に律令をいう制度を持ち込まれたか、刀で治める国から法で治める国を目指されたからであることを説いて反乱をやめるよう命がけで説得する。

平城京
転々とする都 図出典:奈良文化財研究所

聖武天皇は740年から745年まで、現在の京都、大阪、滋賀と、都を転々と移し替えた。
741(天平13)年には国分寺建立の詔
右大臣・橘諸兄の本拠地に近い恭仁京に遷都したことで、諸兄と古い貴族派は恭仁京で大仏をつくり、藤原氏の血を引かないただ一人の皇子、安積親王あさかのみこを天皇に頂き、藤原の野望を断つことを目論んでいた。
藤原一門は平城京に戻って 藤原氏の政権奪還を目論んでいた。

行基は 優婆塞うばそく(在俗の男子仏教信者)750名と地元農民と用水路を切り開いていた。
その姿に感動した聖武天皇は国が作らなければならない橋や用水路をこれまでつくり続けてくれた行基に礼を述べ、優婆塞を僧侶の身分を与え、都の造営と、仏像つくりの協力を頼んだ。

天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔

大仏建立の費用がかかるため、恭仁京で新しい都を作るのをやめて、昔から第2の都として利用してきた難波京を利用しようと移動した。
天平16年(744年)難波宮に行幸の際、その途中で安積親王は脚気になり恭仁京に引き返すが、毒殺された。

安積親王を擁立しようとしていた旧貴族と藤原一門との戦いば勃発思想になるが、真備は戦を避けるために平城京に戻ることを提案する。大仏建立には今でも疑問が残るが、建立するのなら平城京に戻った方が民の負担が軽減されるとも。

745年 平城京へ遷都

玄昉は安積親王殺害の容疑で九州大宰府付近天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌天平18年(746年)仲麻呂の命により任地で殺される。

下道真備改め吉備真備 天平18年(746年)には吉備朝臣の姓を賜与され、天平19年(747年)に右京大夫に転じて、天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、聖武天皇は娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した。

朝廷から遠ざけるため、仲麻呂は真備を筑前守次いで肥前守に左遷する。
天平勝宝3年(751年)には真備は第12次遣唐使副使として入唐する。

翌天平勝宝4年(752年) 4月9日 東大寺 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始された盧遮那大仏の開眼供養会かいげんくようえが盛大に行われる。

孝謙天皇の治世になると、藤原仲麻呂は、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)と、中衛大将を兼ねた。光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に仲麻呂は政権と軍権の両方を掌握して左大臣・橘諸兄の権力を圧倒し、事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立され、孝謙天皇は傀儡となった。

紫微中台しびちゅうだい 749年に設置された令外官。皇太后の家政機関の体裁だが、実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関。

紫微中台が選んだ藤原氏の役人が諸国で不正を行い、私腹を肥やし、農民たちは苦しい生活を強いられた。仲麻呂の身内を中心とした政は、国の制度を歪め、結果として朝廷内の不統一を産み、国が一層荒廃していった。

天平勝宝5年(753年)、真備は鑑真と同じく屋久島へ漂着、さらに紀州太地に漂着後、無事に帰朝する。しかしすぐに正四位下・大宰少弐に叙任されて九州に下向する。
天平勝宝8年(756年)聖武太上天皇崩御
天平宝字2年(758年)8月に孝謙天皇が譲位して仲麻呂が擁立した大炊王が即位(淳仁天皇)する。仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられるとともに、仲麻呂は押勝の名を賜与された。

天平宝字4年(760年)藤原一門とも一線を画し皇族以外で初めて太上大臣に上り詰めたが同年、光明皇太后が崩御し、大きな後ろ盾を失う。

天平宝字8年(764年)孝謙太上天皇は、造東大寺長官として真備を都へ呼び戻す。それが合図のように戦が始まる(藤原仲麻呂の乱)。

吉備真備はその後2代の天皇に仕え、唐で学んだ律令政治の実践を行い、現代に至る国家の礎を築いた。そして775年、81歳の天寿を全うした。その間、大きな戦は皆無であった。

古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」

唐で類稀な学才を認められた遣唐使・吉備真備は、天平6年(734年)、東シナ海の荒波を乗り越えて、17年振りに日本に帰国、平城京の片隅で待つ母、妹と涙の再会を果たす。
まもなく真備は、招かれた宮中の席で、17歳の美しい娘・阿倍内親王と出会う。内親王は問う。「唐の学問は人の心を変えることができるのか?」と。
やがて真備は東宮学士として内親王の教育係に抜擢される。以来二人は固い師弟愛に結ばれ、未だ若く脆弱なこの国の中で、変転万化の人生を歩むことになるのだった。

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