邪馬台国連合
邪馬台国連合
1 中国の情勢
2 3世紀の倭国
三国時代の歴史書●●●に邪馬台国に関する記述あり
- 後漢末に楽浪郡の南半を割いて設けた●●●郡(現ソウル付近)から、女王●●●が支配する●●●への里程を記述
- 大人と下戸などの身分差あり、租税・刑罰の制度、市で交易との記述
- 2世紀後半の大乱後、卑弥呼の邪馬台国を中心に小国連合を形成
- 卑弥呼は鬼道(呪術)に長じ、呪術的権威を背景に統治
- 景初2年(3年 239年の誤り)、卑弥呼は大夫難升米らを帯方郡を経由で、魏の都●●●に派遣 ●●●の称号や多数の銅鏡などを賜る
- 卑弥呼の死後、男王擁立で国内が再び混乱 卑弥呼の宗女(同族の女性)である●●●擁立で混乱が収束
266年、晋に倭の女王(壱与か)が使いを送ったとの記述(『晋書』)を最後に、その後約150年間、日本に関する記載が中国の歴史書から姿を消す
史料チェック: 資料名:●●● 陳寿が著述
「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者あり。今使訳通ずる所三十国。 郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、 邪馬台国に至る。女王の都する所女王国より以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国これを畏憚す。 ●●●、大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠りこれが恭敬を為す。
其の国、本亦男子を以て王と為す。住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐しえ年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を●●●と曰ふ。鬼道を事とし、能く衆を惑はす。年巳に長大なるも、夫婿なし。男弟有り、佐けて国を治む。景初二年(●●●年)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡(●●●郡)に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「 今汝を以って●●●と為し、金印紫綬を仮し 銅鏡百枚 を賜い 」
卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。 更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。復た、卑弥呼の宗女壱与、年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。
この時に下賜された銅鏡との説もある近畿地方で出土数の多い周縁部が三角形をした銅鏡を「●●●」と云う
3 邪馬台国論争
邪馬台国の所在地をめぐり、近畿説と九州説が対立