ヴィクトリア女王 世紀の愛 アルバート(ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)
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ヴィクトリア女王 世紀の愛 あらすじと解説

映画


ヴィクトリア女王 世紀の愛
「大英帝国」の黄金期を築いたヴィクトリア(イギリス女王)の生涯を、夫アルバートと過ごした日々を中心に描いた歴史映画。
帝国主義として行なった戦争の話は一切なく、王位継承者として生まれた運命と女王としての重責の中、まるで普通の少女のように恋をしたヴィクトリア(イギリス女王)が描かれている。

ヴィクトリア女王 世紀の愛

あらすじ・解説

プロローグ

1819年、ロンドンのケンジントン宮殿で女の子が誕生した。イギリス国王とベルギー国王を叔父に持ち、女王として大帝国統治を運命づけられた子だ。
だが彼女が摂政令に著名すればその権力を失う。
君主が不在か無能か幼い場合、摂政が統治する決まりだったからだ。

ケンジントンシステム

食事はすべて毒味してから。友達と学校にも通えず、話題の本も読めない。
父が他界し、母と個人秘書のサー・ジョン・コンロイがヴィクトリアを守るためにケンジントンシステムを作って規則した。個室は与えられず母と一緒に寝る。階段は大人に手を引かれて降りること。
5歳の頃、ガヴァネス(ガヴァネス:個人の家庭内で子供たちを教育し、訓練するために雇われる女性のこと。女家庭教師。)にイギリスと同君連合のハノーファー王国出身のルイーゼ・レーツェンが就いた。

ヴィクトリアはまだ自分の運命を知らされていなかったから、この窮屈な生活をいつも疑問に思っていた。
11歳になってその理由を知る(ヴィクトリアが11歳の時、母ケント公妃はカンタベリー大主教ら聖職者たちの助言に従ってヴィクトリアに女王となる定めであることを告げることを決心した。ガヴァネスのルイーゼ・レーツェンが英国史の教科書の中に英国王室系譜表を隠しておき、それをヴィクトリアに発見させ、いかなる立場にあるのか説明したという。レーツェンの回顧によれば、それを聞いたヴィクトリアは「私は思ったより王座に近いところにいるのね」という感想を述べ、さらに「良い人になるようにしますわ」と応えたという。またヴィクトリアによると一人になった後に大泣きしたという。)。英国王室系譜表を見て、伯父はイギリス王だったが、彼とその兄弟3人に世継ぎは自分だけだった。
コンロイの夢は、王が死んで摂政政治になることだ。母がイギリスを支配し、彼が母を支配する。
権力を欲する母親のケント公爵夫人とその愛人のコンロイは、摂政政治を認めろとヴィクトリアに執拗に要求し続けていた。

ベルギー王国

ヴィクトリアの母の弟のレオポルド1世(ベルギー王)は、当初は姉が摂政になることを望んでいたが、たとえヴィクトリアが摂政令にサインしても姉ではなくサー・ジョン・コンロイの手に権力が握られることを察し、ドイツにいた甥アルバート(ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)とヴィクトリアが結婚できるよう戦略を練る。

1836年5月、アルバートは家族とともにロンドンを訪問し、ケンジントン宮殿でヴィクトリア王女と対面した。2人は意気投合し文通を始める。(ヴィクトリアはレオポルド1世の計画を知っていたが、自身はアルバートとの結婚を望んでいた。ヴィクトリアは、金髪に青い瞳をしたハンサムなアルバートに一目惚れしたのである。ヴィクトリアがレオポルド1世に宛てて、アルバートを紹介してくれた礼を述べる書簡が残っている。)

政治

首相メルバーン子爵は、ホイッグ党リーダーで、ヴィクトリアが戴冠すれば力を持つ人物だった(亡き父ケント公は兄との対立からホイッグ党に肩入れしており、ケント公妃も夫に従って同じ党派に属していた。ウィリアム4世(イギリス王)は保守的であったので、ホイッグ党の大臣たちと対立を深め、ケント公妃をホイッグ党の黒幕とみなし毛嫌いしていた。)。欧州よりイギリスを優先するので、イギリスを犠牲にしてまで外国の王権を救わないため、ベルギーには頭の痛いところだった。
民衆に人気の保守党の指導者はナポレオン1世を破った英雄ウェリントン公爵がいたが、実際は保守党次期首相ロバート・ピールだった。
ヴィクトリアは自由主義でメルバーン派を支持していたため、レオポルド1世(ベルギー王)側は、メルバーン子爵はそれを利用してヴィクトリアに恋を仕掛けるだろうと警戒した。

ヴィクトリアの伯父である当時の国王ウィリアム4世(イギリス王)は、ベルギー(ザクセン=コーブルク=ゴータ家)とヴィクトリアの縁組に賛成せず、ウィレム2世(オランダ王)の息子であるオラニエ=ナッサウ家のウィレム・アレクサンダー王子を考えていた。

国王の誕生日式典においてウィリアム4世(イギリス王)は「神よ、願わくば私の寿命を(ヴィクトリアが成人するまでの)あと9カ月延ばしたまえ。そうすれば摂政を置く必要はなくなる。邪悪な相談者(コンロイ)を持ち、行動も能力も信用できない、そこに座っておる人物(ケント公妃)ではなく、推定王位継承者であるレディー(ヴィクトリア)に直接王位を引き渡すことができるのだ。」と語って怒りをぶちまけた。この公然たる侮辱に立腹したケント公妃は式典を中途退席した。(1836年8月21日。ヴィクトリアを宮廷から遠ざけていること、国王の許可なく摂政同然に振る舞うこと、実家ザクセン=コーブルク家の公子たちをやたらとヴィクトリアに引き会わせようとすること、レオポルド1世(ベルギー王)がヴィクトリアに手紙を送ってくることなどから、ウィリアム4世(イギリス王)にはザクセン=コーブルク家をあげてイギリス王室を乗っ取ろうとしているように思えていた。)

ウィリアム4世(イギリス王)はヴィクトリアの住まいを宮廷に移して収入を上げることにしたが、コンロイはと猛反対し、国王からの金は辞退して母親に与え、自分を個人秘書に任命し、母親と二人三脚で摂政となるのを認めろと命令する。暴力的なコンロイに味方する母にヴィクトリアは一生忘れないと言い捨てる(1837年5月24日にヴィクトリアは18歳になり、成人した。国王はお祝いとして彼女の年金を1万ポンド増額させるとともに新宮殿を与えるので母親から独立してはどうかと勧めたが、ケント公妃の反対によりヴィクトリアは辞退した。)(1837年にセント・ジェームズ宮殿へ形式的に引っ越しをした。)。

コンロイの態度に憤慨するヴィクトリアに、首相メルバーン子爵は自分が個人秘書になると申し入れ、受け入れられた。

即位

ウィリアム4世(イギリス王)が亡くなり、ヴィクトリアは女王となった(1837年6月20日午前2時20分にウィリアム4世はウィンザー城で崩御した。これによりヴィクトリアが18歳にしてハノーヴァー朝第6代女王に即位した。
宮内長官カニンガム侯爵とカンタベリー大主教ウィリアム・ハウリは新女王に即位の報告をするためロンドン・ケンジントン宮殿へと向かった。ヴィクトリアは午前6時に母ケント公妃に起こされ、純白の寝衣のまま、カニンガム侯爵とカンタベリー大主教を引見した。カニンガム侯爵は彼女に国王崩御を報告し、その場に跪いて新女王の手に口づけした。)。

ケンジントン宮殿内の赤の大広間において最初の枢密院会議を開いた(出席した枢密顧問官たちは新女王の優雅な物腰、毅然とした態度、堂々たる勅語に感服したという。ウェリントン公爵はその光景を「彼女はその肉体で自らの椅子を満たし、その精神で部屋全体を満たしていた」と表した。またジョン・ラッセル卿は「ヴィクトリア女王の治世は後代まで、また世界万国に対して不滅の光を放つであろう」と予言した。)。

ヴィクトリアは、改築が終わったバッキンガム宮殿に最初に住む君主となる(ジョージ4世(イギリス王)が、煉瓦造りだったバッキンガムハウスを12年かけて全面改築に着手、それまでルネサンス様式だった建物をネオクラシック様式に改装したが、ジョージ4世は完成を見ないまま死去した。ヴィクトリア以降バッキンガム宮殿はイギリス王室の公式の宮殿となった。)。

首相メルバーン子爵

ヴィクトリアはアルバートへ、首相メルバーン子爵を「寛大で感性豊かなすばらしい政治家で、心から信頼できる私の最良の友でいたずらっこのようによく2人で笑います。」と褒め称えた手紙を送る。
メルバーン子爵はさまざまな問題でヴィクトリアの相談に乗っていた(彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった。
ヴィクトリアは成人を迎えて、母ケント公妃や母のアドバイザーであるケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイの影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。メルバーン子爵はウィンザー城に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。)。
ヴィクトリアが貧しい人たちを救いたいと相談すると、何もしないようがいいと答えた。(首相メルバーン子爵の人物像:宗教も進歩も信じず、何に対しても価値を認めない人だった。
社会改革は最悪の事態を招くと考えており、「善行などという考えは起こさないだけマシである。そうすれば窮地に陥る事もない」と述べ、「政府の責務とは犯罪を防止し、契約を保障することに尽きる」と語っていた。メルバーン卿によれば、教育の普及など良くて無益、貧者に教育を与えるのはむしろ危険なことであった。自由貿易は欺瞞であり、民主主義などという物は馬鹿の骨頂だった。工場で労働する貧しい子供たちについては「ああ、そんなものはただそっとしておいてやればいいいのにねぇ!」で終わりだった。このように徹底した保守主義者・貴族主義者だったにも関わらず、彼は反動ではなかった。内務大臣時代に選挙法改正を受け入れたように政権維持に必要と判断すれば平然と改革を行う狡猾な機会主義者だった。)

アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)

アルバートから求婚することは禁じられていた。女王は自ら求婚しないと結婚できない決まりだった。
アルバートは首相メルバーン子爵がヴィクトリアに近づいていることを知り、ロンドンのヴィクトリアに会いに行く。
「保護が必要な人々を助ける義務がある。困っている人を守るのは君主の仕事です。」と、メルバーンと逆のことを言い、産業が急速に発展して労働者の住宅が足りないこと、低コストで安全で清潔な2世帯住宅の建設案など、労働条件を調べた上で改善策を提案した。

戴冠式

戴冠式(戴冠式は即位後1年後の1838年6月28日にロンドン・ウェストミンスター寺院において挙行した。)を前に、ヴィクトリアの母もバッキンガム宮殿へ移ったが、部屋は遠く離された。
戴冠式後の舞踏会では一人目にアルバートと幸せそうにワルツを踊った。
アルバートはベルギーに帰る前に、ヴィクトリアにあなたのお役に立ちたいと告げたが、ヴィクトリアは自分の権力を自負してまだいいと答えた。

メルバーン子爵の辞職

保守党のロバート・ピールが内閣不信任案を提出して可決され、ホイッグ党のメルバーン子爵内閣は辞職することを知り、ヴィクトリアは泣き崩れた(ホイッグ党を離党していたスタンリー卿(後の第14代ダービー伯爵)らダービー派が1839年春に保守党に合流し、またこれまでメルバーン子爵を支持してきた急進派やオコンネル派もメルバーン子爵が新たな改革を行おうとしないことに不満を強めたことで、メルバーン子爵は議会において苦しい立場に立たされるようになり、1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した英領ジャマイカの奴隷制度廃止法案は庶民院を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した)。

寝室女官事件

新首相ロバート・ピールは、現在の女王の女官たちがほとんどメルバーン子爵の友人の妻であるのは体裁が悪いので一人でも保守党の人間を入れないと宮廷と議会が断絶してしまうと人事案を持ってきたが、ヴィクトリアは女官の人事は女王の私的人事であることを強弁し頑強に退けた。
ヴィクトリアはメルバーン子爵を連れてオペラ鑑賞していると「メルバーン夫人」とモントローズ公爵夫人からヤジが飛んだ。
新首相ロバート・ピールは、女官を変えないというヴィクトリアを説得することができず、組閣できないためメルバーン子爵が首相に留まることになった(宮内官を務めている国会議員は、政権交代とともに入れ替わるのが慣例であった。ヴィクトリアは女王だったので国会議員の代わりにその妻が女官を努め、国会議員の場合と別個に考える道理はないから、ロバート・ピールの要求は慣例に照らし合わせれば正当なものだった。だがヴィクトリアは女官の人事は女王の私的人事であることを強弁した。とりわけヴィクトリアの信頼できる相談役になっていた女官長サザーランド公爵夫人の更迭は論外だった。
女官人事をめぐって5日ほどヴィクトリアとピールの激闘が続いた。ウェリントン公爵も女王の説得に現れたが、ヴィクトリアは公爵の前でも「サー・ロバートはそんなに弱い方なのですか。女官まで自分と同意見の者でなければ困るなんて」と怒りを爆発させ、譲歩の姿勢を見せなかった。ナポレオンを倒した老公が19歳の少女の剣幕に気圧されて、ほうほうの体で御前から退下した。
最終的にピールは大命を拝辞し、メルバーン子爵が首相に留まることでこの騒動は決着した。女王の個人的感情で政権交代が阻止されたこの事件は、世に寝室女官事件と呼ばれた。
マスコミは女王のきまぐれが立憲政治の確立を妨げていると批判し、彼女を諌める夫が必要だという議論を加速させた。ヴィクトリア本人は後年に寝室女官事件について「あの頃の私は非常に若かった。あの一件を今やり直せるとしたら、私は違った行動を取るだろう。」と語っている。)。
新聞に、女王が首相を無視。女王のきまぐれが立憲政治の確立を妨げている。女王が保守党政権打倒かと大きく批判された。町中でも女王はメルバーンの言いなりでドイツ人の母親にも頭が上がらないと揶揄され暴動も起きた。

女王は取り巻きだけで政治を行っていることを知ったアルバートは、女王が愚かなのではなく、愚か者に耳を傾けただけだと言い、即座に相談役(メルバーン子爵)を変えないと悪化すると心配しながらも窮地のヴィクトリアの相談に手紙で答えていた。

結婚

ヴィクトリアはアルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)を呼び戻し、ヴィクトリアがプロポーズして結婚した(ヴィクトリアとアルバートは1840年2月10日にロンドンのセント・ジェームズ宮殿で結婚式を挙行した)。

アルバートは叔父のレオポルド1世(ベルギー王)が望むスパイのような行動は一切行わず、誠実に尽くした。首相や公爵と協議して王室の改革に取り組み、女官(ヴィクトリアの教育係でヴィクトリアが母親同然に思っていたルイーズ・レーツェンは、当時ヴィクトリアの秘書も務めており、王室の予算も諸々の人事権も握っていたが、レーツェンが他人の言いなりで、また年をとるにつれて全体への配慮が行き届かなくなり、王室は大変な無秩序状態になっていた。
またアルバートは自分に比べてヴィクトリアの教養が浅薄であることを気にかけていた。アルバートは科学や技術に精通していたが、ヴィクトリアにはその分野の知識は皆無であり、そういう話題を避けたがった。芸術や音楽の分野には多少通じていたものの、それもやはりアルバートの高い教養には遠く及ばないレベルだった。アルバートはこれをヴィクトリアの女家庭教師だったルイーゼ・レーツェンの教育のせいであると考えており、それもアルバートがレーツェンを宮廷から追放した理由であった。)やコンロイを排除し、戴冠して3年で奈落の底に落ちた王権を回復する努力をした。

ヴィクトリアとアルバートが馬車でコンスティテューション・ヒルを通過中、見物人の一人が女王に向けて発砲する事件が発生した。アルバートはヴィクトリアをかばって負傷した(1840年6月アルバートの行動は新聞に称賛され、ヴィクトリアとアルバートが行くところ国民の万歳の声があがるようになった。)。

メルバーン子爵はヴィクトリアに、自分の指導は完璧ではなかったことを謝り、アルバートは誰よりも善人で、できる男で頭も切れ信頼できる。アルバートと統治をすることを勧め、去っていった。

ヴィクトリアとアルバートは9人の子宝に恵まれた。その子孫は英国王室だけでなく、スペイン、スウェーデン、ノルウェー、ユーゴ、ロシア、ギリシア、ルーマニア、ドイツに及ぶ。
2人は20年にわたり共同統治した。アルバートは腸チフスで逝去 享年42歳。女王は81歳で死ぬまで夫の衣服を大事に残した。
2人は多くの偉業を行い、教育・福祉・産業改革を保護した。芸術・科学への支援は「ロンドン万博博覧会」として1851年に実を結ぶ。

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補足

  • 本作中何度かヴィクトリアがスケッチするシーンが登場する。史実でも、ヴィクトリアは帝王教育で、乗馬や舞踏、絵画、音楽など上流階級のたしなみを身に付けた。中でもスケッチが好きであり、生涯にわたって絵を描き続けた。歴代英国首相やフランス皇帝ナポレオン3世を描いたヴィクトリアの絵が現代のロイヤル・コレクションの中にも残っている。

イギリス ハノーヴァー朝家系図

ヴィクトリア(イギリス女王)

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