イスタンブール歴史地域 (イスタンブルの歴史地区)
アジアとヨーロッパの境界に位置するイスタンブルは、古来から交易上重要な都市であり、ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国の首都として栄えてきた。アメフト1世のモスクは、オスマン帝国の代表的なモスクの一つで、17世紀初めに建てられ、内装は青色のイズニック・タイルで飾られ、その卓越した美しさからブルー・モスクとよばれている。世界遺産。
イスタンブール歴史地域
東西文化交流の要衝として栄えた歴史都市
アジアとヨーロッパの境界に位置するイスタンブルは、古来から交易上重要な都市であった。旧市街地は、北が金角湾、東がボスフォラス海峡、南がマルマラ海と三方向を海に囲まれており、防衛上優れた条件も兼ね備えているため、この地の領有権をめぐって、抗争がたびたびおきた。また、旧市街地にはモスクや教会など数多くの歴史的建造物が残っているため、「東西文明の十字路」とも呼ばれている。
イスタンブルは、古代ギリシアの時代には、紀元前7世紀ごろにこの都市を建設したとされるメガラの王ビザスの名にちなんでビザンティオンと呼ばれていた。古代ギリシア以降のビザンティオンの支配者はスパルタ、アテネ、マケドニアと交代していった。
2世紀末にはローマ帝国がビザンティオンを占領。330年にコンスタンティヌス帝が都をローマからビザンティオンに移して、都市名をコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)とした。395年のローマ帝国分裂後は、ビザンツ帝国の都となり、西ローマ帝国滅亡後も繁栄しビザンツ文化と呼ばれる芸術や建築が花開いた。また、カトリック教会と対抗したギリシア正教会の中心として宗教・文化の重要な拠点でもあった。しかしその後、コンスタンティノープルは同じキリスト教の第4回十字軍(1202〜1204)に占領されて一時はラテン帝国の首都が置かれるなど、政情が不安定になりビザンツ帝国は衰退していった。
カピチュレーション
オスマン帝国の皇帝スレイマン1世が、友好関係を深めるためにフランスに与えた治外法権的な特権をカピチュレーションという。その後、イギリスやオランダなどにも与えたが、帝国が衰退すると、欧米列強に不平等条約として利用されるようになった。
1453年、オスマン帝国のメフメト2世が艦隊を山越えさせ難攻不落のコンスタンティノープルを陥落させると、オスマン帝国の都としてイスタンブルという呼び名が定着した。メフメト2世は、ギリシア正教会の総本山であったアヤ・ソフィアをはじめ、ギリシア正教会の建物を次々とモスクに改築する。聖堂内の壁た天井を美しく飾った、イコンと呼ばれるキリスト教のモザイク画は漆喰で塗り消され、ミナレット(尖塔)などが増築された。またメフメト2世が建造したトプカプ宮殿には歴代のスルタンが居住し、オスマン帝国の政治がこの宮殿で行われたことで、宮廷文化が花開いた。
16世紀、オスマン帝国はスレイマン1世の時代に全盛期を迎えた。高さ約50mのドームをもつ巨大なスレイマニエ・モスクは、スレイマン1世が建設させたものである。その後17世紀初めには、アフメト1世が青いタイルの内装をもつ美しいブルー・モスクを建造したが、スレイマン1世亡き後は内政が不安定になり、17世紀後半ごろからオスマン帝国は衰退し始めた。
オスマン帝国が第一次世界大戦で敗北し、1923年にトルコ共和国となると首都はアンカラに移された。しかし、その後もイスタンブルはアジアとヨーロッパを結ぶ大都市として繁栄している。
ギリシア語で神をさす「聖なる叡智」の読み。スルタン:セルジューク朝時代から用いられた、イスラム世界の世俗君主の称号。
ギャラリー
世界遺産登録物件
概要
イスタンブール歴史地域は、4世紀以来東ローマ帝国の帝都コンスタンティノポリスが、15世紀からはオスマン帝国の帝都イスタンブールが位置した、現在のイスタンブールの旧市街地区に設定されている。
この町はアジア州のアナトリア半島とヨーロッパ州のバルカン半島を隔てるボスポラス海峡のヨーロッパ側にある半島に位置し、海峡を抜けて北に出れば黒海、南に抜ければエーゲ海に至る海上交通の要衝でもある。
紀元前7世紀頃、このイスタンブール旧市街地区に最初の都市をつくったのはギリシャ人入植者たちで、彼らの建てたビュザンティオンは旧市街のある半島の先端にあった。最古の城壁は、遺跡公園地区の北部、現在のトプカプ宮殿の城壁にアヤソフィアのあたりを加えた程度の広さしかなかった。古代ギリシアが古代ローマに組み込まれるとビュザンティオンもローマ都市となり、3世紀には城壁のすぐ側にヒッポドローム(競馬場)が建設された。
330年、ローマ帝国のコンスタンティヌス1世はローマに代わる首都としてビュザンティオンを選び、コンスタンティノポリスと改名。従来の城壁の2km西にコンスタンティヌスの城壁が築かれ、市域を大幅に拡張してローマに匹敵する大都市を建設した。
同じ世紀の末にはローマ帝国の東西分裂によって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、ヴァレンス水道橋(378年完成)やハギア・ソフィア大聖堂(537年竣工)などの、現存する優れた建造物が次々に建設された。413年にはテオドシウスの城壁が完成、市域をコンスタンティヌスの城壁からさらに西に2km伸ばし、堅固な城壁と海によって囲まれ、壮麗な宮殿と数百にも及ぶ教会が立ち並ぶ大都市コンスタンティノポリスが完成する。その人口は東ローマ帝国の盛衰にともなって上下するが、大城壁の堅い守りによって、1204年の十字軍による攻略まで外敵による占領を受けることはなかった。
1453年のコンスタンティノポリス陥落によって東ローマ帝国が最終的に滅ぶと、新たな支配者であるオスマン帝国は、ハギア・ソフィア大聖堂やパントクラトール修道院付属教会、城壁近くのコーラ修道院などのキリスト教の教会をモスクに転用した。このとき、モザイクの壁画は漆喰に塗りこめられたので、かえって20世紀に漆喰がはがされるまで無事に保存されることになる。
また、古代ビュザンティオン市の跡地にトプカプ宮殿が造営され、16世紀にはビザンティン建築の精華を十分に吸収したムスリムの建築家ミマール・スィナンによってスレイマニエ・モスクなど、すぐれたトルコ・イスラム建築が建てられた。17世紀にはハギア・ソフィア大聖堂あらためアヤソフィア・モスクと並ぶようにスルタンアフメト・モスク(通称ブルー・モスク)が建設されるなど、モスクのミナレットと大ドームが林立するイスタンブルの歴史地区の美しい景観がはぐくまれていった。
イスタンブールはオスマン帝国の繁栄のもと都市化が進み、市街地は城壁や海を越えて広がっていった。古くからの市街は19世紀以降、人口稠密な旧市街地区となっていき、政府機能も市街の外に離れる。
しかし、かつての宮殿やモスクはよく保存され、20世紀に成立したトルコ共和国のもとで保存と修復、公開が行われている。トルコは1923年から始めた旧市街整備の際には、旧市街に幹線道路を通して文化財の損壊を招いたこともあったが、その後の整備はそうした反省に立って行われている。
現在では世界中から旅行者を引き寄せる大観光地となり、旧刑務所をホテル、旧病院を高級レストランに転用するなど、一部の歴史的建造物の活用も行われている。
参考 Wikipedia