匈奴
紀元前4世紀頃からモンゴル高原で強力となった騎馬遊牧民。トルコ系あるいはモンゴル系といわれる匈奴は、単于と呼ばれる統率者(君主)のもとで強大化し、内陸アジア東部で最初の遊牧国家を建設した。
1世紀頃、匈奴は南北に分裂、南匈奴は後漢に降伏、中国の北辺に定住し、五胡の一つとなる。ヨーロッパに侵入したフン人は、北匈奴の子孫が西方に移動したものとする説が有力である。
匈奴
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
スキタイと匈奴
多くの家畜を追って、季節的に一定の地域での移動をくりかえしていた平和な遊牧民は、スキタイから騎馬の技術を伝えられると、騎馬遊牧民へと成長していった。そして、彼らの行動は、紀元前4世紀ころに始まり、西方で活躍したサルマタイや東方で活躍した匈奴は最初の代表的勢力であり、とくに匈奴は強大な遊牧国家を建設して、中国の強敵となった。タリム盆地東部にいて、のち匈奴に圧迫されて移動した月氏、天山山脈方面にいた烏孫も有力な騎馬遊牧民であった。彼らが部族的統一を進め、有力な指導者に統率されて強大化したとき、農耕民にとってきわめて大きな脅威となった。
騎馬遊牧民と中国の対立の中にあって、「絹の道」(シルク・ロード)と後世名付けられた内陸アジアの東西交易路を結ぶオアシス地帯が、つねに両者の勢力争いの対象のひとつであった。
交易の利を騎馬遊牧民が確保するか、中国がこれを手に入れるかは、両者にとって重要な問題であった。そのため匈奴による西域進出がしばしばみられ、前漢の武帝(漢)は、パミールを越え、フェルガナ(大宛)まで軍隊を送り、宣帝(漢)のときは、西域都護府をおいて西域を治めるようになった。 後漢の西域都護 班超の30年余にわたる西域経営はあまりにも有名である。
唐代以後は南海交易が盛んになり、東西交易は変化するが、騎馬遊牧民にとって、内陸アジアの交易路確保は重要な問題であり、この地域を勢力下におくことによって、騎馬遊牧民はますます強勢となり、中国を圧迫し、脅かし続けた。
トルコ系あるいはモンゴル系といわれる匈奴は、単于と呼ばれる統率者(君主)のもとで強大化し、内陸アジア東部で最初の遊牧国家を建設した。
戦国時代(中国)に、匈奴は中国の北辺に侵入して、燕、趙、秦、などの諸国を脅かすようになり、これらの諸国では国境線に防衛のための城壁(長城)が築かれた。また、匈奴はスキタイによって始められた騎馬戦術を東アジア世界にもたらし、歩兵と戦車で闘っていた漢人は、彼らをつうじて騎馬戦の技法を学んだのである。
武霊王(趙)、騎射を習う
春秋時代の諸侯は、四頭の馬に引かせた戦車を使用していたが、直接馬に乗って戦う騎馬戦術は開発されていなかった。戦国時代(中国)に入った紀元前4世紀末、西北部に位置して遊牧民との接触が深かった趙の武霊王は、臣下の反対を退けて、みずから胡服(筒袖の上衣やズボンなど騎馬に適した遊牧民の服装)を着て乗馬し、騎射を練習して、率先して遊牧民の騎馬戦術を導入したという。こうして趙は軍事力の強化に成功し、他の諸国もこれにならったので、騎馬戦術は急速に普及していった。
秦の始皇帝は、将軍蒙恬を派遣して匈奴を討たせ、万里の長城を修築して匈奴の勢力をゴビ砂漠の北に追いやった。しかし、秦末に中国が混乱に陥ると、匈奴は冒頓単于のもとで強大化し、北はトルコ系の丁零、堅昆(キルギスの祖)を服従させ、東は東胡(モンゴルまたはツングース系)を滅ぼして中国東北地方を領し、南は月氏を甘粛から西方へ駆逐して「シルク・ロード」の貿易の利をおさめ、さらにオルドスに進出して漢を圧迫するなど、全盛期を迎えた。
冒頓単于
冒頓単于の父は頭曼単于といったが、冒頓単于との仲はよくなかった。このため冒頓は機先を制して、自分の部下に、自分が鏑矢で射たものをそのとおり射つように命じた。
冒頓は、まず自分の愛馬を射たが、部下の中には躊躇して射たない者があったので、ただちにその者を斬った。次に自分の妻を射たが、やはり動揺して射たない者があったので、容赦なくその者を斬った。こうして頭曼単于と狩りに出た冒頓は、隙きをみて父に鏑矢を放ったところ、部下たちは誰一人たがうことなく矢を浴びせかけ、たちまち頭曼単于を射殺したという。
匈奴
漢の宿敵となった匈奴について、司馬遷の『史記』は「馬・牛・羊などを飼い、水と草を求めて遷移し、城郭や定住の場所、耕田をもたない」と述べ、「ゆとりがあるうちは牧畜・狩猟を生業とするが、ゆとりがなくなれば侵攻・略奪に従事する。(肉は)壮健の者が旨い部分を食い、老人はその余りを食う。壮健を尊び、老弱をいやしむ」と、その騎馬遊牧民としての逞しく荒々しい風貌を伝えている。また、亡命・投降した漢人を重く用いるなど(高祖(漢)の功臣の盧綰、文帝(漢)の使節として来訪し単于の顧問となった中行説武帝(漢)時代の有名な李陵ら)、外来の先進的要素を進んで摂取する気風にも富んでいたようである。モンゴルにあるノイン・ウラ遺跡は、紀元前後の匈奴の上層階級の墳墓であるが、その出土文物には、動物模様など南シベリアのスキタイ文化の影響が顕著であるほか、イラン様式のものもあり、また絹織物や漆器など大量の中国製品の出土は、匈奴に漢の文物がさかんに流入していたことを物語っている。
紀元前200年、漢の高祖劉邦は、匈奴の冒頓単于と白登山で闘って(白登山の戦い)大敗を喫し、以後、匈奴に対しては、毎年多額の物品を贈って和平の維持につとめた。
しかし、紀元前2世紀後半に武帝(漢)が即位すると、漢は匈奴に対する攻勢に転じ、将軍衛青・霍去病らによる度重なる遠征の結果、匈奴は大きな打撃をうけてゴビ砂漠の北に追いやられた。
衰退に向かった匈奴は、紀元前56年ころ東西に分裂したが、東匈奴の呼韓邪単于は漢に降って臣従関係を結ぶにいたり(紀元前51年)、キルギス草原に移動した西匈奴は前漢の西域都護甘延寿の攻撃を受けて滅亡した。(紀元前36)元帝(漢)の宮女王昭君が呼韓邪単于(東匈奴)に降嫁されたのは、この時期のことである。
王昭君秘話
王昭君は南部の良家の娘で、選ばれて元帝(漢)の後宮に入ったが、数年帝に召されることがなかったことから、これを悲しみ恨み、紀元前33年みずから匈奴の呼韓邪単于に嫁ぐことを希望した。帝は召してみて、後宮一の美人であることを知ったが、約束をたがえることができず、ついに単于に与えた。昭君は呼韓邪単于との間に男子ひとりを生んだが、呼韓邪が死ぬと、呼韓邪と匈奴貴族の娘との間に生まれた男子が次の単于となり、匈奴の習慣に従いその妃となり2人の娘を生んだという。2人の娘は王莽のとき中国と匈奴との和親に活躍した。
王昭君が帝に召されなかったのは、美貌に自信のあった彼女が画家に贈り物をしなかったため、醜女に描かれ、匈奴に嫁ぐ者に選ばれて降嫁されたのだとの物語も生まれた。
王莽によって前漢が倒され、中国が混乱に陥ると、匈奴(東匈奴)の動きは再び活発になり、後漢の光武帝(漢)の派遣した遠征軍をも撃退して、一時勢力を盛り返した。しかし48年、内紛によって匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏した。彼らは万里の長城の南に移住し、以後、 魏・普にいたるまで中国北辺を守備する役割を果たすことになった(五胡のひとつに数えられる匈奴とは、この南匈奴の末裔である)。
一方、モンゴル高原を根拠地として後漢や南匈奴と対抗した北匈奴は、91年、将軍竇憲の率いる後漢の遠征軍に大敗して本拠地を失い、西方のイリ盆地方面へと移動したが、やがて衰退して消滅した。
なお、4世紀に南ロシア草原に出現し、ヨーロッパに侵入したフンは、この北匈奴の子孫が西方に移動したものとする説が有力である。
匈奴とフン族
匈奴とフン族の関係については、両者の名称の類似(匈奴 Hiungnu / フン Huns)や民族性の一致(フンは「低い身長、幅広の顔、細い目、扁平な鼻」といったモンゴロイド系の特徴をもっていたと伝えられ、その言語はアルタイ系であったと認められる)、時期的な整合性などから、フンは西走した北匈奴の後裔とする説が有力である。しかし、内陸アジアの匈奴の墳墓から出土した人骨は、モンゴロイド系のものとユーロポイド系(ヨーロッパ人種)のものが混在しており、内陸アジアに移動した匈奴は、すでにさまざまな民族と混血して、複雑な人種的構成をもつにいたっていたらしい。この点は、ハンガリーのフン族の墳墓から出土した人骨についても同様である。おそらく、モンゴロイド系の匈奴は、西方への移動の途中でユーロポイド系の諸民族と混合し、さらにフィン族、スラヴ族などの諸民族とも融合しつつ、4世紀に南ロシア草原に出現した(これをヴォルガ・フンと呼ぶ)のではないかと推定される。
月氏
甘粛からタリム盆地東部にかけては、もともとイラン系といわれる月氏が居住し、「絹の道(シルク・ロード)」の出入り口を押さえて交易の利をおさめていた。匈奴の冒頓単于は、この利益に目をつけ月氏を攻撃したため、月氏は西方のイリ盆地に移動した。しかし、トルコ系の烏孫がイリ盆地に進出してきたため、月氏はさらに西トルキスタンのアム川流域に移動した。これを大月氏(前140頃〜1世紀)と呼ぶ。
こうして2世紀の半ばには、モンゴル高原から甘粛にかけて匈奴、イリ盆地に烏孫、アム川流域には大月氏という形勢が生まれた。
大月氏
匈奴、烏孫に追われて西遷した月氏は、アム川流域(バクトリア地方)に入って大月氏となったが、(なお、黄河上流地方に残留した月氏は小月氏と呼ばれた)、このことを漢代の史書は「大月氏が大夏を征服して、この地に五翕侯(小国)をおいた」と伝える。ストラボンの『地理誌』には、紀元前2世紀の中ごろギリシア系のバクトリア王国が「アシオイ、パシアノイ、トハロイ、サカラウロイ」の4民族によって滅ぼされたことが記されているが、「大夏」はこの「トハロイ」の音訳とする説が有力である。これによれば、月氏はトハロイ(トハラ)を征服したことになるが、一方、月氏を「アシオイ」に当てはめる説もある。また五翕侯についても、これを征服者月氏の諸侯とする説と、月氏に服従した先住勢力(大夏)とする説があり、結論をみるにいたっていない。この五翕侯のひとつに貴霜(クシャン)翕侯があり、やがて他の4翕侯を倒してバクトリア地方を統一するが、これがクシャーナ朝である。
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
秦・漢帝国と世界
光武帝(漢)以後数代にわたって国力の充実をはかった後漢は、やがて積極的な対外政策に転じ、匈奴の分裂に乗じて南匈奴を服従させ、北匈奴を北方に追い払って、西域の経営に力を注いだ。
さらに和帝(漢)のとき、西域都護に任命された班超(91年に西域都護)は匈奴を討って西域経営に大いに力を入れ、1世紀の終わりにはカスピ海以東の50余りのオアシス都市国家が漢に服属するようになった。
前漢の宣帝(漢)のとき(紀元前59)、匈奴の投降を契機に西域統治の機関として亀茲に西域都護府をおいた。その長官が西域都護である。前漢末の内乱によって西域に対する統治は途絶え、西域諸国も漢から離反した。それを復活したのが班超である。
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
北方民族の動向
4〜5世紀のユーラシア大陸では遊牧民の大規模な活動がおこり、周辺の農耕地帯はその影響を強くうけた。東アジアでは北方、西方の遊牧民による地方政権の樹立が華北でみられ、また、フン人の西進にともなうゲルマン人の大移動に関連する動きも、こうした動向の一部とされる。1世紀ころモンゴル高原にいた匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏して長城の南辺に移住するようになり、魏・晋代には今の山西省全域にまで広がった。また、後漢後期以来、西方の氐、羌も移住させられたり、あるいは中央政府の力の衰えに乗じて進出したりして、陝西〜甘粛地方に多く移住するようになっていた。鮮卑は匈奴の力が衰えたあとに進出してきたため中国内地への移住は遅れたが、中国での動乱をさけた漢人の亡命者などを取り込んでいた。
これらの遊牧民などによって樹立された地方政権が、4世紀初めから130年余にわたって華北で興亡をくりかえした。したがって、このような動向を五胡の「侵入」と呼ぶより、むしろ華北における五胡の「自立」もしくは「蜂起」というべきである。
一方、こうした華北の混乱を避けて漢人の南方への移住も増大した。こののち華北では遊牧社会の要素を取り入れた新しい文化が生まれるとともに、江南では漢人による開発が進められていき、のちの隋・唐帝国の基礎がつくられることになった。
五胡十六国と南北朝
五胡十六国
華北では、まず南匈奴が強盛を示したが、つづいて匈奴の別種といわれる羯が政権をたてた。
また、2世紀の中頃より中国の北辺を脅かしていた鮮卑も長城を越えて侵入し、政権を打ち立てた。
チベット系の氐や羌も、それぞれ勢力を拡大して政権をたてた。
このうち、氐のたてた前秦は、長安に都をおき強勢となり、長江以北を支配下に入れ、一時的に華北を統一した。さらに中国統一を目指して南下したが、東晋との淝水の戦いで敗れ(383)、これを契機に前秦は崩壊し、南北分立の形勢が決まった。これら匈奴・鮮卑・羯・氐・羌のなどの諸民族を総称して五胡という。このような分裂状態の五胡十六国時代を経て、5世紀前半に鮮卑の拓跋氏がたてた北魏の太武帝によって華北が統一された(439)。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ世界の成立
ゲルマン人の大移動とフン人
ゲルマン人の大移動をひきおこした間接的要因は土地不足であったが、直接的要因はアジア系遊牧民フン族(フン人)の圧力であった。
歴代単于
統一匈奴帝国時代
- 頭曼単于(頭曼、在位:? – 紀元前209年)
- 冒頓単于(冒頓、在位:紀元前209年 – 紀元前174年)…頭曼の子
- 老上単于(稽粥、在位:紀元前174年 – 紀元前160年)…冒頓の子
- 軍臣単于(軍臣、在位:紀元前160年 – 紀元前126年)…老上単于の子
- 伊稚斜単于(伊稚斜、在位:紀元前126年 – 紀元前114年)…老上単于の子
- 右谷蠡王単于(在位:紀元前119年)
- 烏維単于(烏維、在位:紀元前114年 – 紀元前105年)…伊稚斜の子
- 児単于(詹師廬、在位:紀元前105年 – 紀元前102年)…烏維の子
- 呴犁湖単于(呴犁湖、在位:紀元前102年)…伊稚斜の子、烏維の弟
- 且鞮侯単于(且鞮侯、在位:紀元前102年 – 紀元前96年)…伊稚斜の子、呴犁湖の弟
- 狐鹿姑単于(在位:紀元前96年 – 紀元前85年)…且鞮侯の子
- 壺衍鞮単于(在位:紀元前85年 – 紀元前68年)…狐鹿姑単于の子
- 虚閭権渠単于(在位:紀元前68年 – 紀元前60年)…壺衍鞮単于の子
- 握衍朐鞮単于(屠耆堂、在位:紀元前60年 – 紀元前58年)…烏維の耳孫
分裂時代
呼韓邪単于(東匈奴)(稽侯狦、在位:紀元前58年 – 紀元前31年)…虚閭権渠単于の子
- 屠耆単于(賢単于)(薄胥堂、在位:紀元前58年 – 紀元前56年)…握衍朐鞮単于の従兄
- 呼掲単于(在位:紀元前57年)…呼掲王
- 車犁単于(在位:紀元前57年 – 紀元前56年)…狐鹿姑単于の甥
- 烏藉単于(在位:紀元前57年、紀元前56年)
- 閏振単于(在位:紀元前56年 – 紀元前54年)…屠耆単于の従弟
- 郅支単于(西匈奴)(呼屠吾斯、在位:紀元前56年 – 紀元前36年)…虚閭権渠単于の子、呼韓邪単于の兄
- 伊利目単于(在位:紀元前49年)…屠耆単于の小弟
再統一時代
- 復株累若鞮単于(雕陶莫皋、在位:紀元前31年 – 紀元前20年)…呼韓邪単于の子
- 捜諧若鞮単于(且麋胥、在位:紀元前20年 – 紀元前12年)…呼韓邪単于の子、復株累単于の弟
- 車牙若鞮単于(且莫車、在位:紀元前12年 – 紀元前8年)…呼韓邪単于の子、捜諧単于の弟
- 烏珠留若鞮単于(嚢知牙斯、知、在位:紀元前8年 – 13年)…呼韓邪単于の子、車牙単于の弟
- 烏累若鞮単于(咸、在位:13年 – 18年)…呼韓邪単于の子、烏珠単于の弟
- 呼都而尸道皐若鞮単于(輿、在位:18年 – 46年)…呼韓邪単于の子、烏累単于の弟
- 烏達鞮侯単于(烏達提侯、在位:46年)…呼都而尸道皐若鞮単于の子
王莽が冊立した単于
- 孝単于(咸、在位:11年 – 13年)…烏累若鞮単于
- 順単于(助、在位:11年)…烏累若鞮単于の子
- 順単于(登、在位:11年 – 12年)…烏累若鞮単于の子、助の弟
- 須卜単于(当、在位:18年 – 21年)…須卜氏の右骨都侯
北匈奴
- 蒲奴単于(蒲奴、在位:46年 – ?)…呼都而尸道皐若鞮単于の子、烏達鞮侯の弟
- 優留単于(優留、在位:? – 87年)
- 北単于(名称不明)(在位:88年 – ?)…優留とは異母兄、右賢王
- 於除鞬単于(於除鞬、在位:91年 – 93年)…北単于の弟
南匈奴
- 醢落尸逐鞮単于(比、在位:48年 – 56年)…烏珠留単于の子
- 薁鞬左賢王単于(在位:50年)…北匈奴蒲奴単于の弟
- 丘浮尤鞮単于(莫、在位:56年 – 57年)…烏珠留若鞮単于の子、醢落尸逐鞮単于の弟
- 伊伐於慮鞮単于(汗、在位:57年 – 59年)…烏珠留若鞮単于の子、丘浮尤鞮単于の弟
- 醢僮尸逐侯鞮単于(適、在位:59年 – 63年)…醢落尸逐鞮単于の子
- 丘除車林鞮単于(蘇、在位:63年)…丘浮尤鞮単于の子
- 湖邪尸逐侯鞮単于(長、在位:63年 – 85年)…醢落尸逐鞮単于の子、醢僮尸逐侯鞮単于の弟
- 伊屠於閭鞮単于(宣、在位:85年 – 88年)…伊伐於慮鞮単于の子
- 休蘭尸逐侯鞮単于(屯屠何、在位:88年 – 93年)…醢落尸逐鞮単于の子
- 安国単于(安国、在位:93年 – 94年)…伊伐於慮鞮単于の子、伊屠於閭鞮単于の弟
- 亭独尸逐侯鞮単于(師子、在位:94年 – 98年)…醢僮尸逐侯鞮単于の子
- 逢侯単于(逢侯、在位:94年 – 118年)…休蘭尸逐侯鞮単于の子
- 萬氏尸逐侯鞮単于(檀、在位:98年 – 124年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子
- 烏稽侯尸逐鞮単于(拔、在位:124年 – 128年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子、萬氏尸逐侯鞮単于の弟
- 去特若尸逐就単于(休利、在位:128年 – 140年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子、烏稽侯尸逐鞮単于の弟
- 車紐単于(車紐、在位:140年)
- 呼蘭若尸逐就単于(兜楼儲、在位:143年 – 147年)
- 伊陵尸逐就単于(居車児、在位:147年 – 172年)
- 屠特若尸逐就単于(在位:172年 – 178年)
- 呼徵単于(呼徵、在位:178年 – 179年)…屠特若尸逐就単于の子
- 羌渠単于(羌渠、在位:179年 – 188年)
- 持至尸逐侯単于(於扶羅、在位:188年 – 195年)…羌渠の子、劉豹の父
- 須卜骨都侯単于(在位:188年 – 189年)
- 呼廚泉単于(呼廚泉、在位:195年 – 216年)…持至尸逐侯単于の子