光武帝(漢) (劉秀)(紀元前6年〜57年)
後漢の初代皇帝(在位25年8月5日 - 57年3月29日)。新の滅亡後も群雄の争いは続いたが、漢の一族である劉秀は、豪族を率いて勢力を伸ばし、漢(後漢)を復興し、洛陽に都をおいた(25)。光武帝(漢)は赤眉の乱を鎮圧すると(27)、内政に力を注ぎ、前漢の諸制度を復活し、儒教的な秩序のもとに国内の平和を確立しようとする一方、対外的には消極策をとった。
光武帝(漢)
清王朝を滅亡させ、漢王朝を再興
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
新と後漢
新(中国)(8〜23)をたてた王莽は、周の政治を理想として『周礼』などの儒教の経典に基づいて政治をおこない、官制や貨幣制度を改め、全国の土地を国有にし、奴隷の売買を禁じ、また商工業を統制した。その極端な復古主義の政策は社会の実情に合わず、農民や豪族の反抗を招いた。対外的にも、匈奴や西域諸国、高句麗などが離反した。
こうした政治の混乱のなかで農民の反乱(赤眉の乱 18〜27)がおこり、それに乗じた地方豪族の反乱もおこって、都の長安は陥落し、王莽は殺されて新はわずか15年で滅亡した(23)。
新の滅亡後も群雄の争いは続いたが、やがて漢の一族である劉秀(光武帝(漢))は、豪族を率いて勢力を伸ばし、漢(後漢)を復興し、洛陽に都をおいた(25)。光武帝(漢)は赤眉の乱を鎮圧すると(27)、内政に力を注ぎ、前漢の諸制度を復活し、儒教的な秩序のもとに国内の平和を確立しようとする一方、対外的には消極策をとった。
秦・漢帝国と世界
漢委奴国王印
1784年(江戸時代)、北九州の博多にある志賀島(福岡市)で、農民の甚兵衛が田の用水路をなおしていたとき、金印を発見した。甚兵衛は庄屋と相談して藩主の黒田家に届けでた。その印面には「漢委奴国王」と彫られており、光武帝によって奴国王に与えられたと『後漢書』に記されている印綬であると考えられている。
漢代の文化
儒学
後漢の光武帝(漢)の保護・奨励により儒学は国家の統治理念として他の学問を圧倒したばかりか、日常生活の規範ともなって定着した。このような儒教の国教化は、その教説の固定化を招き、学者はもっぱら秦代の焚書で失われた古書の復元や経典の注釈に力を注ぐ訓詁に努め、訓詁学は後漢の馬融や鄭玄らによって大成された。
子女
- 皇后 郭聖通(後廃)
東海恭王 劉彊 長子
沛献王 劉輔 次子
済南安王 劉康 五子
阜陵質王 劉延 七子
中山簡王 劉焉 十子 - 美人許氏
楚王 劉英 三子 - 光烈皇后 陰麗華
明帝 劉荘 四子
東平憲王 劉蒼 六子
広陵思王 劉荊 八子
臨淮懐公 劉衡 九子
琅邪孝王 劉京 十一子
- 舞陰公主 義王 – 太僕 梁松(酒泉太守・宣徳将軍・九江太守梁統の子)に嫁す。涅陽公主 中礼 – 大鴻臚 竇固(涼州牧・大司空竇融の弟の奉車都尉竇友の子)に嫁す。
- 館陶公主 紅夫 – 駙馬都尉 韓光に嫁す。
- 淯陽公主 礼劉 – 長楽少府 郭潢(郭皇后の弟の大鴻臚郭況の子)に嫁す。
- 酈邑公主 綬 – 新陽侯世子 陰豊(陰皇后の弟の少府陰就の子)に嫁す。
後漢の歴代皇帝
後漢の歴代皇帝一覧
代 | 廟号 | 姓諱 | 諡号 | 在位 |
---|---|---|---|---|
1 | 世祖 | 劉秀 | 光武帝(漢) | 23年 - 57年 |
2 | 顕宗 | 劉荘 | 明帝(漢) | 57年 - 75年 |
3 | 粛宗 | 劉炟 | 章帝(漢) | 75年 - 88年 |
4 | 穆宗 | 劉肇 | 和帝(漢) | 88年 - 105年 |
5 | 劉隆 | 殤帝(漢) | 105年 - 106年 | |
6 | 恭宗 | 劉祜 | 安帝(漢) | 106年 - 125年 |
7 | 劉懿 | 少帝(漢) | 125年 | |
8 | 敬宗 | 劉保 | 順帝(漢) | 125年 - 144年 |
9 | 劉炳 | 沖帝(漢) | 144年 - 145年 | |
10 | 劉纘 | 質帝(漢) | 145年 - 146年 | |
11 | 威宗 | 劉志 | 桓帝(漢) | 146年 - 167年 |
12 | 劉宏 | 霊帝(漢) | 168年 - 189年 | |
13 | 劉辯 | 少帝(漢) | 189年 | |
14 | 劉協 | 献帝(漢) | 189年 - 220年 |