ソルコクタニ・ベキ (1192年頃〜1252年)
チンギス=ハンの四男・トルイの正妃。モンゴル帝国第4代皇帝のモンケ、モンゴル帝国第5代皇帝で元王朝の創始者のフビライ、イルハン朝の創始者のフレグ、モンゴル帝国帝位継承戦争でフビライと争ったアリクブケの実母。
ケレイト部族の王であったオン・カンの実弟ジャカ・ガンボの三女。長姉がチンギス=ハンの妃になっているため、チンギスの義妹にもあたる。
ソルコクタニ・ベキ
生涯
父のジャガ・ガンボは実兄のオン・カンやその嫡子イルカ・セングンと不仲で、チンギスと仲が良かったという。そのため、1204年に兄と甥がチンギスに敗れて死去しても、娘をチンギスやその子のジョチやトルイに嫁がせるなどして厚遇を手にしている。
ソルコクタニ・ベキはトルイと仲が良く、この間に4人の男児に恵まれている。
1232年に夫が急死すると、長男のモンケにトルイ家を継がせ、自らはその後見役のような立場となった。
1241年に第2代モンゴル皇帝・オゴタイ=ハンが死去して次代の皇帝位をめぐる争いが起こると、オゴタイ=ハンの長男・グユクが生母・ドレゲネの強い支持を受けて1246年に第3代のモンゴル皇帝として即位する。しかしジョチ家の当主・バトゥやモンケとその母であるソルコクタニ・ベキらはこの即位に不満を持ち、ソルコクタニ・ベキはバトゥと密かに連絡を取り合って密約を交わしたりしたという。
1248年4月にグユクは急死を遂げているが、ビシュバリク方面にグユクが遠征しているのを警戒するようにとバトゥに知らせ、それを受け取ったバトゥがグユクを暗殺したという説もある。
グユクの死後、ソルコクタニ・ベキはバトゥと協力してオゴタイ=ハン家の政権を否定して自らの長男・モンケを擁立し、1251年までに第4代のモンゴル皇帝として即位させた。
間もなく病に倒れ、1252年からモンケ・フビライ・フレグらによる遠征が始まる中で死去し、ネストリウス派キリスト教徒だったため、甘粛省張掖市の教会に安置された。
夫トルイが早世した後、その間に生まれた若年の息子たちを育て上げてトルイ家を盛り立て、その息子たちがいずれも王朝の王となったことから、彼女を「賢夫人」と評価する声もある。『集史』トルイ・ハン紀ではソルコクタニを「王国の4つの支柱として立ったチンギス・ハンの4人の息子のような、彼(トルイ)の尊厳ある4人の息子の母」と称している。