玄奘三蔵
玄奘三蔵像 (東京国立博物館蔵/鎌倉時代重文) ©Public Domain

玄奘三蔵


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玄奘三蔵 A.D.602〜A.D.664

玄奘げんじょうは、唐の僧。インドに渡り仏教研究を行い、657冊の経典とともに帰還。太宗(唐)から三蔵の称号を受け経典の漢訳にあたり、75部1335巻の仏典を完成させる。弟子に編述させた『大唐西域記』は当時を知る重要な資料。明代に承恩ごしょうおんに書かれた長編小説『西遊記』の三蔵法師のモデル。

玄奘三蔵

求法のために国禁を犯す

幼くして聡明で知られ、13歳のときに出家。洛陽についで成都で学ぶうちに名が知られるようになり、その後、荊州、相州、趙州を経て長安に赴く。長安では多くの師について学び、つぶさに彼らの説を吸収したが、よくよく考えてみれば各人各様の解釈があり、さらにそれを経典と比べてみるとかなりの相違があることがわかった。いったいどれを信じればよいのか。その疑問を解決するためには、本場の高僧に疑義をただすしかない。そう思い定めた現状は、インドへの求法ぐほうの旅を決意する。

しかし、唐王朝は異国人の出入国は許していたが、唐の人々の国外への旅行を禁じていた。玄奘は同志数名とともに嘆願書を提出するものの、案の定、朝廷の許可はおりなかった。この時点で同志たちは諦めたが、玄奘は違う。彼は国禁を犯して、一人でも行くつもりだった。かくして玄奘が出発の途についたのは629年秋8月、27歳のときだった。

インドへの大旅行が『西遊記』のモデルとなる

涼州(武威ぶい)、瓜州かしゅう安西あんせい)を通り、高昌国こうしょうこくでは国王麴文泰きくぶんたいはから大歓迎を受け、4人の侍従や日用品、西域24か国の国王への紹介状と贈り物、西突厥統葉護可汗とうようこかがんへの献上物のほか、20年分の旅費として黄金100両、銀銭3万、綾および絹500ぴきなどの寄進を受けた。ついで天山山脈を超えて現在のキルギスで統葉護可汗の歓待を受け、それから現在のウズベキスタン、アフガニスタンを経てインドへ入った。

玄奘は仏教研究の中心であったナーランダ僧院で5年間学んだほか、求法と仏跡巡礼のためインド全土を周遊したのち、帰国の途につく。ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を超えて、クスタナ国(ホータン)から太宗(唐)に手紙を送った。厳罰に処されるかと不安だったが、それは杞憂きゆうにすぎず、罪を許されたばかりか、太宗の遣わした多くの役人が慇懃いんぎんに出迎えてくれた。かくして玄奘は16年ぶりに祖国の土を踏んだ。

玄奘は仏舎利150粒、仏像8体、経典520きょう657部などを唐に持ち帰り、残りの人生をはじめは弘福寺ぐふくじ、のちには大慈恩寺だいじおんじにおいて経典の翻訳に捧げた。

ナーランダ・マハーヴィハーラ
ナーランダ・マハーヴィハーラ(東塔遺跡)©Wikipedia

ナーランダの遺跡(インド・ビハール州)。インド随一の学問寺で、玄奘がいた頃は数千人の学僧が集まったという。12世紀にイスラーム勢力による破壊を受け、現在は遺跡が残る。世界遺産。

夢の瑞徴:出立にあたり、玄奘は瑞徴を求めた。するとその夜の夢に、仏教で説かれる聖山が現れた。難路であったが玄奘はやすやすと山頂に達し、喜んでいるうちに目覚めたという。

大唐西域記:玄奘の名が一般にまで広く知られるようになったのは、明代の口語長編小説「西遊記」をきっかけとする。これは玄奘の弟子が編纂した旅行記『大唐西域記』を素材としている。

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諸地域世界の交流

東西文物の交流

大旅行家の行程地図
大旅行家の行程地図 ©世界の歴史まっぷ
人物の往来
玄奘のインド旅行
玄奘三蔵
大雁塔 (陝西省西安) Source Wikipedia

玄奘げんじょうは、唐初に陸路によってインドに赴いた僧侶で、彼の口述による『大唐西域記』は、旅行記として当時の西域やインドの様子を知るために重要なものである。また彼は、後世『西遊記』の三蔵法師として庶民にも親しまれることとなった。
彼の青春時代は、隋から唐への混乱時代で、社会不安を背景に、仏教教理の研究が盛んであった。仏教教理の中でも特に難解な唯識ゆいしきの教理を探求していた彼は、直接サンスクリット経典を研究することを思い立った。
唐ははじめ、対外関係上、外国への旅行を禁じていたので、国禁を犯しての出国となった(629)。彼のとったルートは玉門関ぎょくもんかんから天山北路をとり、高昌こうしょう(トゥルファン)を経て、西突厥の援助などを受けながら、サマルカンドを経てアフガニスタン、西北インドへと進んだ。当時のインドは、ヴァルダナ朝ハルシャ・ヴァルダナ(在位:606〜647)の治世で、北インドではグプタ朝以来しばらくぶりの平安な時代であった。ハルシャ・ヴァルダナは仏教を保護したので、インド仏教の最後の繁栄の時代でもあった。しかし、かつての仏教の聖地ガンダーラはすでに荒廃しており、ガンジス川中流域(ビハール州南部)のナーランダーを訪れて、5年間勉学に没頭した。ハルシャ・ヴァルダナの援助も受けて、多数の経典や仏像を携えて帰国の途についた。
帰路に高昌(トゥルファン)が滅亡した(640)ことを知り、天山南路から于闐うてん(コータン)を通り、645年に帰国した。
すでに唐の治世は安定し、積極的に対外進出を目指そうという時代であり、玄奘は、仏教保護の国策と相まって太宗の保護を受けて、国家的事業というべき翻訳事業に着手した。彼の居住した大慈恩寺にはインドから持ち帰った啓典を収めるために塔が建てられた。これが現代まで残っている大雁塔だいがんとうであり、西安のシンボルともなっている。

大唐西域記

『大唐西域記』12巻は、インドへの旅行に際しての見聞により、中央アジア、インド、西アジアの約140国について国別に記した旅行記。土地の方位、里程、歴史や伝説も記し、原語を精密に漢字で表現しており、この地域のことを知るためには重要な文献である。

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同時代の人物

天智天皇(626〜671)

舒明天皇の子で、即位前は中大兄皇子。大化改新により政治の主導権を握る。663年の白村江の戦いでの敗北を受け、防備を固めるとともに律令体制の構築を急いだ。

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