飛鳥浄御原宮
6世紀末の推古朝から7世紀末の天武朝にかけて、飛鳥地方(現奈良県明日香村)に(諸天皇の宮殿が置かれた飛鳥京に)あった、天武天皇(在位673〜686)・持統天皇(在位690〜697)が営んだといわれる宮。
飛鳥浄御原宮
飛鳥京の宮殿地域は発掘調査により時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっています。
本研究では672~694年の遺構と考えられている伝飛鳥板蓋宮跡III-B期の建築物の復元を行いました。 III-B期の浄御原宮は、III-A期(後飛鳥岡本宮)の内郭の南東に東西94m、南北55mのエビノコ郭を増設した段階の宮殿です。 宮域は南北720m、東西100~450mの範囲に広がり、外郭内と宮域の周辺には苑地や官衙が立ち並んでいたと考えられています。
参考 バーチャル飛鳥京
672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、天智天皇・弘文天皇の都であった近江国(滋賀県)の近江大津宮から飛鳥に都を戻すべく、この宮を造営した。
翌673年に大海人がこの宮で天武天皇として即位して以降、天武天皇とその夫人で次の天皇となった持統天皇が、20年以上に渡ってこの宮で律令国家の基礎を築く事業を進めたとされる。
694年に藤原宮に遷都され、廃止された。
日本最初の律令である飛鳥浄御原令もここで編纂された。
7世紀に編纂された『日本書紀』から、内安殿などさまざまな名前をもった殿舎が飛鳥浄御原宮に存在したことが判明している。
2004年、飛鳥京跡の発掘を進めていた奈良県立橿原考古学研究所は、大型の高床式建物跡を発見し、飛鳥浄御原宮の「正殿」であったと判断した。宮域は、南北800メートル、東西500メートルくらいの範囲に収まる。
参考 Wikipedia