藤原基経 阿衡の紛議
藤原基経(菊池容斎画) ©Public Domain

阿衡の紛議


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阿衡の紛議 (阿衡事件)
887(仁和にんな3)年、宇多天皇即位直後、摂政の藤原基経ふじわらのもとつねに関白就任を求める宇多天皇の詔のなかに、基経を「阿衡あこう」に任じるという語があったが、基経は中国の古典では「阿衡」は名ばかりの名誉職に過ぎないと抗議したため、天皇は詔を撤回して、その起草者の橘広相たちばなひろみを処分した事件。

阿衡の紛議

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摂政の地位は藤原良房ふじわらのよしふさから養子の藤原基経ふじわらのもとつねに受け継がれるが、基経は884(元慶8)年、光孝天皇こうこうてんのうから関白の職を行うよう命じられ、887(仁和3)年、宇多天皇うだてんのうの即位直後におきた阿衡の紛議あこうのふんぎによってその地位を確立する。

阿衡の紛議

基経に関白就任を求める天皇の詔のなかに、基経を「阿衡あこう」に任じるという語があったが、基経は中国の古典では「阿衡」は名ばかりの名誉職に過ぎないと抗議したため、天皇は詔を撤回して、その起草者の橘広相たちばなひろみを処分した事件。

補足

宇多天皇は先帝の例に倣い大政を藤原基経に委ねることとし、左大弁橘広相に起草させ「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」との詔をする。関白の号がここで初めて登場する。基経は儀礼的にいったん辞意を乞うが、天皇は重ねて広相に起草させ「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」との詔をした。
阿衡とは中国の故事によるものだが、これを文章博士藤原佐世が「阿衡には位貴しも、職掌なし」と基経に告げたため、基経はならばと政務を放棄してしまった。

問題が長期化して半年にもおよび政務が渋滞してしまい宇多天皇は困りはて、真意を伝えて慰撫するが、基経は納得しない。阿衡の職掌について学者に検討させ、広相は言いがかりであることを抗弁するが、学者たちは基経の意を迎えるばかりだった。結局、広相を罷免し、天皇が自らの誤りを認める詔を発布することで決着がついた(阿衡事件)。
これにより藤原氏の権力が天皇よりも強いことをあらためて世に知らしめることになった。これをいわゆる「正式の関白就任」と呼ぶこともある。基経はなおも広相を流罪とすることを求めるが、菅原道真が書を送って諫言しておさめた。この事件は天皇にとって屈辱だったようで、基経の死後に菅原道真を重用するようになる。

宇多天皇と基経との関係は一応修復され、政務をとりはじめた。仁和4年(888年)に娘の温子が女御に上がっている。
寛平3年(891年)、病床につき薨去。正一位が贈られ、昭宣と諡された。また、関白の地位は基経が亡くなった後も置かれた。

参考 Wikipedia

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