トゥール・ポワティエ間の戦い (732年10月10日)
フランス西部のトゥールとポワティエの間で、西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝とフランク王国の間で起こった戦い。フランク王国の宮宰カール・マルテル率いるフランク王国が勝利し、これ以後イスラーム勢力のピレネー以北への進出は食い止められ、フランク社会におけるカール・マルテルおよびカロリング家の地位はいっそう強化された。
トゥール・ポワティエ間の戦い
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ世界の成立
フランク王国の発展とイスラームの侵入
ピピン2世(中ピピン)が没し、その子カール・マルテルが宮宰になった8世紀初頭にはイスラーム軍がイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし(711年)、ピレネー山脈を超えてフランク領内に侵入してきた。カール・マルテルは騎士団を編成してこれを迎え撃ち、トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利した(732年)。
カロリング家の権威は絶大なものとなり、マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、751年ザカリアス(ローマ教皇)の同意のもとにメロヴィング家の王国キルデリク3世を廃し、みずから王位についてカロリング朝を開いた。
トゥール・ポワティエ間の戦い
イスラーム軍の攻撃に耐えかねたアキテーヌ公ウードは、やむをえず北ガリアの支配者であった宿敵カール・マルテルに救援を要請した。マルテル(鉄槌の意)はイスラーム騎兵に対抗するため、重装騎兵を中核とする軍を編成して南下した。イスラーム軍はポワティエを攻め、つづいてキリスト教の聖地のひとつであるトゥールをめざして北上、732年10月ついに両軍は激突した。
有名な戦闘のわりには史料がとぼしく、詳細は明らかではないが、この戦闘でイスラーム側は将軍のアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーを失い、敗退した。そのため、トゥールの聖マルタン修道院はイスラーム軍の略奪から逃れることができた。
また、これ以後イスラーム勢力のピレネー以北への進出は食い止められ、フランク社会におけるカール・マルテルおよびカロリング家の地位はいっそう強化された。ただし、その後イベリア半島と地中海一帯が長らくイスラームの支配下におかれたことを考えると、この戦闘の意義を過大に評価することはできない。
戦争データ
年月日:732年10月10日 | |
場所:フランスのトゥールとポワティエの間 | |
結果:フランク王国の勝利 | |
交戦勢力 | |
フランク王国 ランゴバルド王国 |
ウマイヤ朝 |
指導者 | |
カール・マルテル アキテーヌ公ウード |
アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー |
戦力 | |
15,000-75,000 | 60,000-400,000 |
損害 | |
約1,500 | 不明(被害甚大) |
参考 Wikipedia