荘園制の解体は、中小領主層や騎士の経済的・政治的基盤を掘りくずし、封建制の崩壊をもたらした。中世末期には、常備軍と廷臣(官僚)に支えられて王権は伸張し、国内市場の統一を望む市民階級(大商人)と提携して、中央集権化をはかることになった。
封建制・荘園制の崩壊
都市と商業の発達は、必然的に貨幣経済の浸透を促した。現物経済に依存してきた荘園領主も貨幣を必要としはじめ、12〜13世紀ころから経営の見直しを迫られるようになった。そこで、直営地を解体して農民に分割貸与し、従来の賦役を生産物地代ないしは貨幣地代に切り替えていった。いわゆる古典荘園から純粋荘園への変化がこれである。だた、それは旧来の領主・農民関係を大きく変えることになった。すなわち、領主の人格的支配はしだいにゆるみ、貨幣を蓄えた農民の中には、多額の解放金を支払うことにより、人頭税・結婚税・死亡税などの身分的隷属から自由になるものも現れたのである。
この農奴解放は、14〜15世紀になるとさらに促進された。百年戦争・バラ戦争などの相次ぐ戦乱とペスト(黒死病)の大流行により、農村人口が激減したからである。とくに、1347〜1348年のペストの流行は、イタリア半島や南フランスからほぼヨーロッパ全土に波及し、全人口の3分の1から5分の1を奪ったと言われる。
農業労働力の不足に対処するため、領主は地代を軽減したり、農民の土地保有権を強化して保有地の売買や貸借の自由を認めるなど、待遇の改善をはかった。こうした動きは、一般に「封建制(領主制)の危機」と称されるが、結果的に領主は地主化し、農民も少額の地代を納めるだけで身分的にはほとんど自由な独立自営農民(ヨーマン)となった。ヨーマンの誕生は、地代の金納化のもっとも進んでいたイギリスで顕著にみられた。また、フランスを中心とするエルベ川以西の地域では、生産物地代を負担する小規模経営の農民が多数生まれることになった。
ペストの流行都市の恐怖
12世紀を中心とする前後200年のヨーロッパは、農業的高度成長の時代であったが、それを支えた農業技術の革新も限度に達し、13世紀半ばには開墾運動が沈滞するようになった。穀物生産も伸び悩み、人口増加による穀物価格の上昇は、14世紀以降の人々を慢性的な栄養失調状態に陥れた。そこにペストの大流行である。人々はペストの格好の餌食となった。日常化する死のなかで、人々は死の恐怖を増幅させた。そうした恐怖のなかで、人々はさまざまな祈願・祈祷を行った。
なかには、十字架と革ひもを手にして行進し、聖歌を歌いながらはだけた上半身を鞭打つ苦行者の群れも見られた。あるいは、南フランスやライン沿岸の諸都市では、ペストの流行をユダヤ人の仕業と考える人々により、ユダヤ人の虐殺が行われた。また、絵画や彫刻の主題にも死がとりあげられ、墓地のフレスコ画などに「死者の舞踏」「死の勝利」が描かれた。イタリア・ルネサンスが人間の生を追求したのも、死と隣り合わせの時代であったからだということもできる。
だた、封建制の危機に際して、農民の土地を直営地に吸収して賦役労働を強化し、農奴制の再編(再販農奴制)をはかる動きも見られた。特にエルベ川以東のドイツにこの傾向は強く、15〜16世紀以降、大規模な直営農地経営(グーツヘルシャフト)によって穀物を主とする商品作物が生産され、西ヨーロッパ諸国に輸出された。
一方、西ヨーロッパ諸国においても、領主の中には封建的支配を復活しようとして(封建反動)、農民一揆を招くこともあった。百年戦争初期の1358年、戦乱による荒廃と重税に苦しめられた北フランスの農民と手工業者らは、ギヨーム・カルルを主導者に蜂起し、地区ごとに組織を作って領主の城館を襲撃した(ジャックリーの乱)。折から、パリ市内でもエティエンヌ・マルセルを中心とする市民の反乱がおこっており、それと呼応するかのように、ジャックリーの乱はパリ一帯からシャンパーニュ・ピカルディ地方に広まった。だが、ギヨーム・カルルが捕らえられ処刑されると、反乱は急速に勢いを失い鎮圧された。
イギリスでも、1381年ワット・タイラーの乱がおこった。百年戦争の戦費確保のために導入された人頭税に農民が反発、ワット・タイラーや説教僧のジョン・ボールに率いられ、イングランド東南部からロンドン市内に進撃し、一時ロンドンを占領した。
リチャード2世(イングランド王)との直接交渉により、農奴制の廃止、取引の自由、地代の減額などを約束させたが、まもなくタイラーは奸計にかかって殺され、反乱は鎮圧された。約束は取り消され、ジョン・ボールらの指導者も捕らえられ、処刑された。だが、その後も各地で反乱が続発し、結局農民たちは身分上の自由を勝ち取っていった。
ジャックリーの乱
戦争による荒廃と重税に苦しめられた農民は、1358年フランス北部を中心に反乱をおこしたが、カルロス2世(ナバラ王)、国王および諸侯の軍隊に鎮圧された。
ワット・タイラーの乱
画面左側ではロンドン市長(剣をかざしている人物)にワット・タイラー(剣を抜こうとしている人物)が殺害され、中央の馬に乗ったリチャード1世(イングランド王)がそれをみている。その国王が、右側場面では農民軍に対して帰郷するように説得している。場所はロンドン市内のスミスフィールド。中央の紋章はイングランド国王のもの。
ジョンボールの説教
「善良なる民衆諸君よ、イングランンドでは物事がうまくいっていない。また財産が共有となり、農奴も領主もなく、全てのものが一つに結ばれるまでは、そうはならないのだ。我々が領主様と呼んでいる人々は、一体どういうわけで我々より偉い主人なのか。彼らは誰に害を与えているのか。彼らはなんの理由があって我々を隷属させているのか。もし我々が皆一人の父と一人の母、アダムとイヴから生まれたものならば、どうして彼らは、自分たちが我々より偉い領主様であるといったり、それを証明したりすることができようか。」(西洋資料集成)
荘園制の解体は、中小領主層や騎士の経済的・政治的基盤を掘りくずし、封建制の崩壊をもたらした。中世の戦う階層を象徴する騎士は、剣・槍・弓・盾などの武器と重い甲冑で身を固め、個人的な騎馬戦を得意としたが、14〜15世紀に大砲や小銃などの火砲(火器)が発明されると、しだいに歩兵戦が戦闘の主役となった。また、封建契約に基づく騎士の軍役奉仕では、実際の戦闘には不都合をきたすことも多く、百年戦争以降各国で傭兵隊による常備軍の形成が進んだ。こうした戦術や兵制の変化は騎士の没落に拍車をかけた。没落を免れた騎士も、国王の宮廷にすがる廷臣と化し、自立性を失っていった。こうして、中世末期には、常備軍と廷臣(官僚)に支えられて王権は伸張し、国内市場の統一を望む市民階級(大商人)と提携して、中央集権化をはかることになった。